そいぢや、この秋のリーグ戦は、誰かに切符貰つた?
こよ  何処だつて、大抵手にはひるわ。二枚はむづかしいけど……。
底野  おれも、この夏から月給取りだぜ。いま人にや云へないが、ある三井系の会社だ。七十円だけど、初めにしちやいゝだらう。
こよ  ほんと、それ? 出鱈目でせう。
底野  いゝよ、さう思ふなら……。君さへよけれや、おれや、一生、貧乏してゝやる。
こよ  ちよいと、あたし、喉が渇いちやつたわ。
底野  井戸の水は、自慢なんだがなあ、尤もそいつあ大家の話なんだけど……。
こよ  家賃ちやんと払つてる?
底野  ちやんと払つたら、かうして生きちやゐられんね。
こよ  そんなこつたらうと思つた。(起つて水を飲みに行く)
底野  おれにも一杯頼むぜ。茶碗がそこにあるだらう。君の飲んだあと、洗はなくていゝや。だが、いゝなあ、かうしてたまに君と話をするなあ……。なあ、おい、こよちやん、時々、なんべんも来てくれよ。誰かの煙草を買ひに行く時、ちよつと電車へ乗つちまへばいゝんじやないか。

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こよ現れる。茶碗に水をいれて来る。
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底野  ありがたう。なるほどうまい水だ。これで少し砂糖でもはひつてると申分はないんだが……。あゝ、さうだ、こよちやん、こんど来たとき返すから、朝日一つ買つて来てくれよ。君だつて、もう一二本は喫つてもいゝ年頃だぜ。君のその口元でさ、歯の間にちよつぴり煙草のやにをくつゝけてるなんて、絵にだつてありやしないぜ。よう、買つて来てくれつてば……。
こよ  だつて、あたし、今日は往復の電車賃きり貰つて来ないんですもの。ちよいと、火鉢に火もないの。
底野  ぢや、帰りの分は落したつて、歩いてけばいゝぢやないか。
こよ  こつから神田まで……? 一体、どれくらゐあるの、十里ぐらゐあつて……?
底野  馬鹿云つてらあ。電車で市内とも三十分ぢやないか。三十分つて云や、普通の足で一里足らずだ。
こよ  さうを。そんなゝの? でも、一里歩くのいやだわ。あたし、近頃、少し歩くと(左の胸をおさへ)こゝがどきどきして、なかなかとまんないのよ。
底野  年頃になれば誰だつてさうだよ。おれだつて、もう五六年前までは、さういふ風だつたよ。何処か外へ出ると、帰つて来るまで呼吸《いき》が苦しいんだ。帰つて来てからでも、暫くは、誰とも口を利くのがいやだ。一人でぢつと空を見たり、空が暗ければ、畳の上の焼こげを見つめて、大きな溜息を吐《つ》いたもんだ。あれや、しかし、苦しいもんだけど、また、なんとなく、楽しいもんだ。
こよ  あら、そんなのとは、また違ふのよ。
底野  男と女とでは多少容態が違ふさ。こよちやんは、今年十九だらう。おれが二十八だ。悪いことは云はないから、貧乏な奴んとこへお嫁に行くなよ。貧乏でもいゝから、何時でも少しづゝ現金を持つてる奴んとこへ行け。いざつていふ場合に困るからな。それから、なんでも、途中で止めたつて奴のところへ行つちやいかん。行商でも初めから行商をしてる奴ならいゝ。それもなるべくひと品だけを売るつていふ主義でないといかん。
こよ  いゝわよ、そんなお説教聞かなくつたつて……。そいぢや、今日は駄目ね。
底野  駄目でもないよ、どうせ暇なんだから……。ゆつくりしてき給へ。
こよ  さうぢやないのよ。お金のことよ。
底野  金のことなら、飛田が帰つたら相談しとかう。出る時に持つてなくつても、帰りには持つてかへるといふことが、間々あるもんだ。尤も、あいつは、拾ひでもしなけれや、十円とまとまつた金を持つて帰る筈はない。まあ、この夏まで辛棒し給へ、お互にね。
こよ  (諦めて)ぢや、帰るわ、あたし。
底野  あつさりしてるね。まあ、茶碗でも片づけてけ。
こよ  (茶碗をもつて勝手に行き、そのまゝ)さよなら……。

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底野はまたひつくり返る。今度は、雑誌も読まうとせず、毛布を腰に巻きつけ、両腕を上下して体操みたいなことをする、煖を取るためであらう。
そこへ、表から、飛田が帰つて来る。洋服を着てゐる。
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底野  おい、トンビ、今、そこで誰かに会つたらう。
飛田  うん、会つた。
底野  どうだい。おれのこと、なんか云つてたか。
飛田  いゝや、別に……。これから現金でなけれや、一切配達はしないつて断りやがつた。
底野  なんの配達?
飛田  米でも炭でもさ。
底野  米? 炭? なんだ、それや。相模屋の御用聞か。
飛田  さうさ。例のエヘヽヽつて調子ぢやなかつたぜ。
底野  それだけか。他には誰も会はなかつたか。
飛田  それを今、話さうと思つてるとこだ
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