一軒をお邪魔して歩きましたら、また、その宅次第ではお目に止るものがありはしまいか、なるほど、かういふものは買つておいて損はない、これは珍しいから誰それさんにも分けてあげよう……。
底野  もしもし、それでわかりましたがね、生憎、僕の家にゐる男が、やはり君のやうな思ひつきを、今実行してゐるんですよ。こいつが、大概のものを持つてますからね、わざわざほかから買ふ必要がないんだ。
男  お言葉でございますが、人それぞれの頭は、働き方が違ひまして……。
底野  ところが、そいつと来たら、言ふことが君と同じでしてね。頭の働きもよく似てるんだ。
男  はゝゝゝゝ御戯談でせう。わたくしは、元来、生ひ立ちから申しまして、多少人様と違つたところがございますし、決して、人様の真似や、人様から真似られるやうなことは……。
底野  それさ、君、その男といふのが、実にまた人と違つたとこがあつてね。
男  それはさうでございませう。ですが、甚だ勝手をお許し願へれば、ひとつ、そのお方のお持ちになる品と、わたくしの持参いたしました品とをお比べ下さいまし。恐らくどれひとつ同じものはございますまい。
底野  さあ、そんなら、君は何と何を持つてゐるの。
男  有りがたうございます。恐れ入りますが、これをちよいと御覧願ひまして……。
底野  見なくつても、品物の名前だけを云つて見給へ。
男  畏こまりました。えゝ、これが、その、当節問題になつてをります『まむしの丸薬』……。
底野  あゝ、それはあつたよ。
男  しかし、この品は、信州伊那の里から直接取り寄せました純粋混ぜものなしの……。
底野  ところで、そいつは、何に効《き》くの。
男  老若男女、これを用ひまして、精力の衰ふるを知らず……。
底野  あ、それや、駄目だ。そんなものを飲んでこの上精力なんかつかれちや堪らないよ。なんとかしてそいつを散じようと心掛けてるくらゐだ。
男  では、その方は御用がないとして、この胚芽から取りました消化薬……。ヂヤスターゼなどより遥かに……。
底野  おい、おい、馬鹿云つちや困るよ、君。たゞでさへ食つたものが腹へ溜らなくて始末に悪いんだ。よしてくれ、そんなもの……。話を聞くだけで胃がキユウキユウ鳴りだした。
男  それでは、この完全燃焼を特長とする小粒煉炭……。
底野  火の気は一切禁物だ。
男  では、この、毛織物に特効ある虫よけ香錠……。
底野  そいつは、質屋の方へ持つてつといてくれ。
男  最後に、卸値段の精選脱脂綿、薬局でお求めになるより四割方お徳用……。
底野  折角だが、女が一人もゐないんでね。
男  (荷物を片づけ)どうもお邪魔いたしました。またどうぞ、御用の節は……。
底野  寝たまゝ失敬。(さう云つて、また雑誌を読み続ける)

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やがて、また、今度は勝手口から、若い女の声で『御免下さい、御免なさいまし』
[#ここで字下げ終わり]

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底野  (元気よく起き上り)おはひんなさい。どなた?
女の声  あたしよ。
底野  あたしつて誰だい。あたしぢや多勢ゐてわからねえや。まあ、どのあたしでもいゝからおあがりよ。

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若い下町風の娘がはひつてくる。前の下宿の娘こよ(十九)である。
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こよ  (軽く手をついて)こんちは……今日はお一人?
底野  一人だつていゝぢやないか。奇麗になつたね。
こよ  奇麗になつたつていゝぢやないの。
底野  それや無論、悪いた云はないさ。どうだい、家は相変らずかい。
こよ  えゝ。あんたんとこは?(あたりを見廻し)この前より落ちついて来たわね。
底野  (これもその辺を見廻し)どの辺が? 板津や神谷はまだゐるかい。
こよ  えゝ、神谷さんは、この春奥さんを貰ふんですつて。今、家を探してるわ。
底野  板津は、やつぱり下宿代を溜めてるかい。
こよ  ふゝん、どうだか……。人のことなんかなんだつていゝから、あんた、どうかしなさいよ。あたし、いやだわ、こんなこと、しよつちゆう云ひに来るの。母さん、怒つてゝよ。それや嘘だけど、ほんとに少しづゝでもいゝからつて云つてるわよ。家から来るんでせう。
底野  二十円づゝ来るには来るよ。そのうちをどうかしろつていふのかい。虫がよすぎるぜ。
こよ  あら、そつちこそだわ。二十円がさ、こんな風にしてゝ何にかゝるの。
底野  おい、失敬なこと云ふない。斬髪だつてチツプを含めれや一円はかゝるぜ。
こよ  その頭、何時刈つたのさ。
底野  忘れるくらゐ度々刈つてらあ。時に片岡千恵蔵は見に行くかい。
こよ  えゝ、ついこなひだ、あれ見たわ、なんだつけ……。
底野
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