底野  おつと、それなら、こつちが先だ。なあ、おい、たつた今迄、そこに坐つてさ、今日は、ひとしほ晴れやかに、また馴れ馴れしくおれと語つて行つたぜ。髪は何時もの髪だが、まだ結ひたてゞ油も腐らず、前掛けは余所行の、例の緋の裏さ。今年は大して霜焼も目立たず、足袋をはいてゐるから光つた足の裏も見えない。
飛田  それより、おれは、今日、あいつに会つたよ。誰だか当てゝ見ろ。
底野  だから云つてるぢやないか、なるほどこゝへ来たことを黙つてゐたと見える。いきなり、その辺を見廻してさ、『あんたも、近頃貫目がついたわね』つていやがる。
飛田  そんなことより、こつちはどうだ。おれの顔を見ると、あの眼にもう涙を溜めて……。
底野  嘘つきやがれ。トンビでも、何時の間にか洒落たことを覚えやがつた。
飛田  断じて嘘ぢやない。――かういふんだ、まあ聴け、『実に懐しい。近頃はどうしてゐる。こんなところで立話もなんだから、その辺のカフエーへでもはひらう。』
底野  (躍起になり)馬鹿、馬鹿。おれは、外のことは云ひたくないんだ。日頃、貴様が、おれの主義を軽蔑し、果報は寝て待つべきものではない、よろしく……。
飛田  さうさ。よろしく、外へ出て、方々を探し廻れと云つた。犬も歩けば棒に当る、それが真理だ。その証拠に……。
底野  いや、黙れ。果報は寝て待て、その証拠がこれだ。いゝか、それからどうしたと思ふ。下宿代なんか何時でもいゝ。あなたが成功したら、それくらゐ御祝ひに熨斗をつけてもいゝと云つたぞ。それからだ……。
飛田  それからだ。カフエーなんとかの一隅だ。テーブルの上で優しくふるへてゐる桜草を挟んで、二人は、しみじみと積る話をした。
底野  なにが、積る話だい。こつちはな、いゝか、驚くな。同じ茶碗で、水を飲んだぞ。その甘さは、丸で砂糖水だ。レモンエキスでも入れてみろ、酒石酸を少しと。丸でラムネだ。
飛田  ラムネがなんだ。われわれはカクテルだ。
底野  誰が払つた?
飛田  向うだ。向うは、今度、親爺の遺産がころげこんだ上に、会社は先輩三人を飛び越して支店長……。月給は少くとも三百円だ。
底野  なんの話だい、それや。
飛田  そら、ゐたらう、おれと同郷の蜂谷さ。おれは、うれしかつた。カクテルに酔つた以上に、おれは、友人の成功に酔つた。幸福な話に酔つた。幸福そのものに酔つた。自分の現在に
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング