津幡  だつて、心臓は誰の心臓でもこんなもんですよ。
卯一郎  誰の心臓でも? なるほど、今は当り前に打つてるやうですな。呼吸も楽《らく》になりました。どうも発作的に来るやうです。
津幡  さうでせう。しかし、それなら心配はありません。――と、まあ、医者なら云ふところですな。尤も、さう云つてゐて、今夜にも急変がないとは保証できませんがね。それはしかし、われわれの力で、予測はできませんからな。
卯一郎  何か薬のやうなものは……。
津幡  必要ないでせう。是非欲しいとおつしやれば、なんか差上げてみませう。
卯一郎  では、仮に、また発作《ほつさ》が来たやうな場合、どうしたらいゝでせう。
津幡  過ぎ去るのを待てばいゝでせう。
卯一郎  発作が起らないやうには出来ませんか。
津幡  原因を除くんですか? 原因なんかさう簡単にわかりませんよ。まあ、神経性のものなら、神経を鎮める方法もありますが、医者の顔を見て発作《ほつさ》が治まるくらゐのもんなら、却つていぢくらない方がいゝでせう。元来、病気なんてものは、医者の手で幾割なほせますか。仮に病源を適確に探りあてて、理論通りの処置をしたとして、その結果は、百パーセント有効とは云へませんからね。悲観的に見れば、治療と称する何等かの刺激が、逆《ぎやく》に患者の健康状態を悪化させる場合が十中の五まであると覚悟しなければなりません。
卯一郎  十中の五……それはまた意外なお話ですな。なるほど、医者によつては、技術の不足と云ひますか、ある病気を治療できないといふことはあるでせうが、医術そのものは、そんなに不完全なもんでせうか。
津幡  医術はどうか知りませんが、結局は、それを運用する人間――その人間といふものが、不完全に出来てゐるんだから、どうも仕方がありません。
卯一郎  つまり、なんですか、不熱心とか、不深切とか……。
津幡  それもあります。しかし、なにを不熱心、不深切といふんですか。呼びに行つて直ぐ来ない。これが不深切ですか。医者だつて疲れもしますし、遊びたくもある。そのうへ、商売の心得ぐらゐありますよ。わざわざ損になるやうなことはしやしません。実は、こなひだ、ある家から子供の容態が悪《わる》くなつたからすぐ来てくれと云つて来た。私は丁度、家内を連れて芝居に行つてたもんですから、電話がかゝつて来たあと、一幕だけ見て、駈けつけたわけです。子供は駄目でした。怒りましてね、親が……。二時間待つたといふんです。ところで、私に云はせると、二時間前に、もう、絶望状態であつたことは確かなんです。早く行つても間に合はなかつたわけです。手おくれは親の罪で、私の罪ではない。しかし、そこはデリケートなところで、もう一つ、こんな例があります。私が診《み》てゐた女の患者ですが、もう六十五といふ年です。赤痢の疑ひで、たうとう菌がでないうちに、衰弱してしまひましてね。もう見込がない。そこで、無駄と知りながら、最後の食塩注射をして、身寄のものを呼ぶなら呼べと云つて帰りましたが、それがどうです。翌日からめきめきよくなつて、今でもぴんぴんしてます。
卯一郎  さういふのは、どういふんでせう。
津幡  寿命といふんでせう。その二つの実例から、私は、医者といふ商売がいやになりました。どんな病人でも、自分が責任を持つ以上、昼夜附きつきりでなければ、完全な治療を尽すといふわけに行かないんですからな。いつ時でも人|委《まか》せには出来ない。肺病なんかだと、二年間は、その患者と寝起きを倶にする必要がある――といふのが私の意見です。そんなことが出来ますか。
卯一郎  出来ませんな。
津幡  出来ないなら、おんなじことです。医者といふのは名だけです。病人の気やすめです。そのことで、面白い話があるんです。
卯一郎  ちよつと、失礼ですが、隣りの部屋に家内もやすんでゐるんですが、さつきから頭痛がするとか寒気《さむけ》がするとか云つてるやうです。ひとつ、お序《ついで》にどうか……。
津幡  あ、こちらですか。(隣室にはひり、とま子の寝てゐる傍に坐る)気分が悪《わる》いですか。
とま子  はあ、とても……。
津幡  (脈をみながら)嘔気《はきけ》なんかは……?
とま子  はあ、少し……。
津幡  ありますね。頭痛は、この辺ですか。
とま子  えゝ、そこと、この辺もずつと……。
津幡  ほかに変りはありませんね、舌を出してみて下さい。はい、結構。(聴診器をあてる)大きく呼吸《いき》をして……。よろしい。さうですね、たしかに何処か悪いやうです。しかし、私にも何処といふことははつきり云へません。ことによると、このまゝ直つてしまふかも知れません。お腹《なか》が空《す》いたら、何でも上つてみてごらんなさい。御主人も同様です。(卯一郎の方へ帰つて来て)さう、面白
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