います……さきほどの……はい、どうぞ……」
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卯一郎  (呼鈴を押す)遅かつた。いや、遅くない。誰でもいゝ。側にゐてくれ。

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小僧の三木が上つて来る。
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卯一郎  あ、お前か、三木か、丁度いゝ。そこへ坐れ。配達は、もうすんだか。御苦労だつた。今に給金を上げてやるぞ。明日は、何処々々だ? 返事はしなくつていゝ。何をきよろきよろ見てるんだ。もつと落ちついて、おれの云ふことを聴け。いゝか、来年は工場をうんと拡張する。お前たちにも部屋をあてがつてやる。広いことはいらん。三人で四畳半なら沢山だ。女工の数も三倍に殖《ふ》やす。気の利いた事務員を一人置く。女でも差支へない。手紙が書けさへしたら……。さうだ、中古のオートバイを一台、無論、配達用だ。お前、乗り方を稽古しろ。おや、足がしびれて来た。医者はまだか。起たなくつていゝ。足をつねつてみてくれ。こゝだよ、足は……。(小僧は毛布の下に手を差し込む)さうだ、そこを、ぎゆつと、……かまはん、かまはん、遠慮せんでいゝ。それで力いつぱいか。もうちつと痛くはできんか。
三木  こゝぢやいけませんか。
卯一郎  痛い。なにをする。
三木  (驚いて手を引込める)
卯一郎  (力なく)はゝゝゝ、痛くつてなによりだ。おれはな、お前ぐらゐの年に、何処で何をしてたと思ふ?
三木  (首をかしげ、知りませんといふ顔をする)
卯一郎  知らんだらう。人の畑から野菜を盗んぢや、町へ売りに行つたもんだ。昔だぞ、それや。今だつたらそんなことはせん。町には、優しいお神さんが二人ゐた。一人は物持ちのお神さんで、野菜を残らず買つた上に、これはお駄賃だと云つて、二銭玉をくれたもんだ。もう一人は、貧乏人のお神さんで、大根を一本、たゞおいてけと云つて、その代り、熱い甘酒《あまざけ》を出してくれた。おれは今でも、その二人の顔を、はつきり覚えてる。おれのお袋は、おれが生れると間もなく、何処かへ姿をかくしたといふんだが、この二人のお神さんは、云はゞ、おれのお袋だ。お前は、おつ母《か》さんの乳を飲んだことを覚えてるか。
小僧  (笑ひながら)へえ。
卯一郎  赤ん坊みたいな声を出すな。(間)眠くなつた。気が遠くなる
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