奥さんには、もう何度も云つた筈だが、お前はまだ来たてで、教はつてなけれや仕方がない。早く下へ降りてくれ。奥さんはなにしてる?
きぬ お洗濯をなすつてらつしやいます。
卯一郎 なに? 奥さんが洗濯? よろしい。それは後にして、大急ぎで来るやうに云つてくれ。(女中去る)おや、腰の痛みは大分《だいぶ》退《ひ》いたぞ。だが、心臓の方は、相変らず面白くない。ドキドキ……ドキ……ドキドキ……ドキ……ドキドキドキ。たしかに面白くない。
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妻のとま子が現はれる。
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とま子 おやすみになつてたんぢやないの?
卯一郎 兎に角、今は、この通り眼をさまして、お前の来るのを待つてるんだ。病気の時だけは、もうちつと傍《そば》についててくれ。洗濯なんか自分でしなくつてもいゝぢやないか。それに、手袋ははめたかい。(妻の手を握つてみる)
とま子 さうおつしやるけど、あの炊事手袋つて、どうしてもあたし、使ふ気になれないんですもの……。
卯一郎 ほかの品物ならわざわざ使ふ必要はないさ。おれが新案を取つて、あれだけ世間へも広めた完全無欠といふ品物ぢやないか。お前がそんなことを云ふと、第一、人聞きもよくない。「滑らず、破れず、外れず」この三大特長を備へた炊事手袋といふものは、今のところ外にないんだぜ。だからこそ、瀬沼商会からは、五万円で権利を買はうとまで云ひ出して来てる。売らんよ、それくらゐの金ぢや……。ぢつとしてても、毎年一万八千円以上の売上げがある。原料が知つての通り安く手にはひるから、利益はざつと六割といふぼろさ加減だ。今時の商売人で、二万六千といふ現金を銀行に遊ばせておくなんざ、夢のやうな話だぜ。あゝ、苦しい。心臓が止《とま》りさうだ。済まないが、そうつと、さすつてみてくれ。
とま子 (右手を毛布の下に差し込み)この辺ですか。あらいやだ、汗をかいてらつしやるわ。
卯一郎 暑いからぢやない。もつと軽く……。ねえ、おれはどうも、あのお医者、信用できんよ。ざつと見たぐらゐで、なんでもないなんて云ふのは、無責任|極《きは》まる話さ。心臓だけは、もうちつとしつかりした医者に見せておきたい。
とま子 あんたのやうにお医者ばかり替へても、却つて為めにならないわ。体質つてもんは、同じ患者を普段手がけてな
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