に、おれがどうもない時は、世にも稀れなる女房振りをみせてくれるぢやないか。さつきも云ひかけたことだが、四十幾つかになつて、はじめて貰つた若い細君を、さうはやばやと未亡人にできるかい。おれが病気を怖《こは》がる理由は、たゞそれだけだ。おれは、よく云ふやうに、二十《はたち》の年に国を飛び出して、南洋の島から島を渡り歩いた。真珠採りになつて海の底へもぐつたり、ゴム林の中で土人と一緒に寝起きしたりしてゐた頃は、病気なんて実際、屁とも思はなかつた。それが、日本へ帰つて、偶然思ひついた仕事が、案外うまく行くし、こはごは持つた女房が、これまた大当りと来たもんだから、おれは、やたらに生命《いのち》が惜しくなつた。聴いてるかい、奥さん。そこで、お前が、おれを大事にし序《ついで》に、病気の時は、病人らしく扱つてくれさへしたら、却つて、おれは、なに糞といふ気になるんだ。痛いでせうと云はれゝば、多少痛いところも我慢をする。苦しくはないかと訊《き》かれゝば苦しいなんてことも、三度云ふところを一度にするんだ。寝てゐろと云はれゝば、つい起きてみたくもなるし、医者を呼ぼうと云へば、いや大丈夫だと云ひたくなる。そこのところをひとつ考へてくれ。今だつて、お前の出方ひとつで、おれは註文を取りに出かける支度をしてみせるぜ。どうせお前が止《と》めると思へばだ。来たぞ、医者が来たらしい。どれ、あゝ、苦しい、さつきよりまだ苦しい。だんだん苦しくなる。

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女中が医師津幡直を案内してはひつて来る。
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津幡  どんな工合ですか。
卯一郎  心臓がどうも……変なんですが……。
津幡  胃の方は……?(脈を取る)
卯一郎  あ、あの方は、その後ずつとよろしいやうです。二三日前から、神経痛が起つて寝てゐたんですが、昨夜《ゆうべ》から急に心臓が……。
津幡  以前に、さういふことは一度もなかつたですね。
卯一郎  ありません。心臓だけはしつかりしてるつもりでした。
津幡  拝見しませう。(聴診器をあてる)

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隣室で、微かに呻き声が聞える。勿論、妻のとま子である。
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津幡  (診察を終り)なんでもありませんね。
卯一郎  さうでせうか。

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