もないらしいどころか、この通り、ドキ……ドキドキ……ドキ……立派に途切れてる。早くさう云つて来い。
とま子  いゝわよ、もう先生、お出掛けになつた頃だわ。そんなに心配なさらなくつて大丈夫よ。この前だつて、胃が破れさうだなんて、実際どうもなかつたぢやないの。
卯一郎  胃と心臓は違ふ。おい、もう少し、なんとか、病人のそばにゐるらしくしろよ。ぢつとそんなとこに立つてないで、椅子をこつちへ引寄せるなりなんなり、脈を取るなんて気の利《き》いた真似《まね》が出来なけれや、せめて、はらはらした顔附でもしろ。額に手を当ててみるぐらゐのことは、他人だつてして差支へないことだ。おれがお前なら、医者の来る前に、酸素吸入の用意をするぜ。
とま子  戯談《じやうだん》だわ。そんなに、はつきり物が云へるぢやないの。顔色だつてどうもないし……。
卯一郎  顔色? 顔色が好いのは、どうにもならんさ。十五年間南洋の日にさらしたお蔭だ。はつきり物を云ふから可笑《をか》しいと云ふのか。はつきり云はなけれや、お前にはわかるまい。二十八にもなつて、男の眼附が読めないぢやないか。
とま子  またはじまつた。えゝ、えゝ、あたしは馬鹿で、間抜けで、気が利かなくつて、ぼんやりで、低脳よ。
卯一郎  どれもみんなおんなじこつた。
とま子  さうよ、おんなじよ、あたしだつて、頭痛がするわ。寒気《さむけ》がするわ。足の先が冷《つめ》たいわ。
卯一郎  ちえツ、またはじめやがつた。
とま子  なにをはじめたの。病気はあんたの専売特許だと思つてんの?(ぷいと部屋から出たと思ふと、隣室へ現はれて押入から夜具を取り出し、手早くそれを敷いて、今度は羽織を脱ぎ帯を解き、長襦袢のまゝ横になつてしまふ)
卯一郎  (調子を和らげ)おい、奥さん、おれが悪《わる》かつたよ。後生《ごしやう》だから、その手は勘弁してくれ。不自由この上なしだ。おれが病気になると、お前がいやな顔をすると云ふのは、そこを云ふのだ。お前は、おれが病気になるたびに、自分も加減が悪《わる》いと称して寝てしまふ。これで幾度だ。平生は至つて健《すこ》やかなお前が、一日や二日の看護に、疲れるといふわけがない。それも徹夜をして氷をわつたとでもいふなら格別、看護と名のつく看護を、一体全体|何時《いつ》したことがある。これは決して、お前の愛情に疑ひをもつといふ意味ぢやない。その証拠
前へ 次へ
全22ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング