その代り、泣いてゐる子供がふと玩具を見せられて泣き止んだ時の、云はゞあのほつとするやうなものが潜んでゐる。
天真爛漫は、彼に於いては、まことに痛切な救ひなのである。そして、彼をその状態におき得るものは、天下に細君一人なのである。
彼のけち臭い自尊心、蒼白い懐疑、燻ぶる反抗精神が、彼女の前で、雲散霧消する現象は、まことに、壮絶の極みである。尤も、壮絶といふ言葉に皮肉な意味はない。或ひは悲壮といふ方がいゝかもしれない。事実、私の胸は涙でいつぱいになることがある。
彼はあるところでかう書いてゐる。
「マリネツトは、次第に伸び育つて怒りになりさうな私の不機嫌を、芽生のうちに摘み取る術を知つてゐる」と。
世間にかういふ細君が絶無であるとはいはない。また、自分の妻の美点を、かく知り、感謝の念を以てかく語る男が、まつたくゐないとは限るまい。しかし、ルピツク夫人を母親にもち、「自分は誰からも愛されてゐない」と叫ぶ少年「にんじん」の生涯を考へたならば、結婚が彼にもたらした一つの幸福について、われわれはそれを単なる幸福といふ言葉で片づけ得るであらうか?
表を見せれば、必ず裏を云ふ彼、成功の蔭で自己を嘲笑ひ、友情の重さを秤りにかける彼、そして、浮気をしない亭主とはこの世で一番しよんぼりした男であることを認める彼が、たゞ望んで獲た女なるが故に妻を貴しとする筈はないのである。
マリネツトとは、どんな女性であつたらうか?
二人はある日、墓地を散歩した。彼女は、一つの墓石の前に跪き、その表面へ指で――それゆゑ跡は残らないが、――二人の名前を書いた。
その時の、彼ルナアルのしんみりした顔附を想像するのは、これは読者の当然な権利である。
聡明で、聡明なるが故に単純で、貞淑で、貞淑なるが故にコケツトな一人の女性を考へてみることもできる。
再び云ふが、結婚後十年、稀代の拗ね者、純日本的照れ屋ルナアルをして、野に菫を摘ましめ、これを妻への土産とせしめたものは、たゞ単に、孤独な魂の感傷にすぎないであらうか?
彼は結局、妻のすがたを次のやうに描いた。
――パジイへ散歩。私は林を抜ける、感じのいゝ道を選んだ。ところが、まるでどろどろの道だ。泥の中に踏み込むたびに、マリネツトは、「なんでもないわ」とか、「もう大丈夫、心配しないで。草のなかで足を拭くわ」とか云ふ。こんな風に、泥だらけの道に
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