に相互的な関係を生じ、ラシーヌ中の力強い、生気に満ちた場面を読むと、これはまるでシェイクスピアのやうだと感心し、それからまた、シェイクスピア中の非常に純粋なリリシズムを発見すると、あゝ、これはまるでラシーヌのやうだと感心したのでありました。彼れはかういふ風に、二十歳から二十六歳までの間に最も多くシェイクスピアの影響を受け、シェイクスピア風の戯曲をも書いた。殊にイタリーを舞台にした彼の作品には、シェイクスピアの戯曲から直接何らかの暗示を受けたと思はれるものがあります。例へば、ミュッセの「マリアンヌの気紛れ」といふ脚本がありますが、これはシェイクスピアの「ヴェロナの二紳士」と非常に類似してゐる。それからまたハムレットは、ミュッセのローレンスといふ人物と実によく似てゐるのです。
 それから降つては、Dumas fils――伜のデューマ――「椿姫」を書いたデューマ――がまた「ハムレット」の翻案をした。この翻案を、フランスの当時の第一の悲劇役者 Mounet Sully が、四回までも上演して、一回毎にますます立派な演技を見せたといふ記録があります。また当時、〔Franc,ois Hugo〕 といふ人が、シェイクスピアの全集を翻訳してゐます。
 二十世紀になりますと、――十九世紀におけるシェイクスピア熱は、十九世紀末の自然主義運動でやゝ影を潜めたのですが――再び盛り返して来た。それは例の Antoine が自由劇場運動をひと先づ打切つて、アントワヌ座で従来とはやゝ傾向を異にした戯曲を取りあげましたが、その時「リヤ王」が上演されたのです。今迄のフランスにおける「リヤ王」の上演はカットだらけのものであつたが、この時のはシェイクスピアの原作通りでした。翻訳者はピエール・ロチー。この上演はアントワヌが自分の記録の中に書いてゐますが、大成功。この場数の多い戯曲を、前後の幕に仕切つて、小さなシーンは幕前でやり、幕が上がると奥に別の舞台が出来てゐるといふ仕掛け。間に十五分の幕あひの時間を二つ置いてやつた。エミール・ファゲがその批評の冒頭で、この時、時計を見てゐたら二時間五十七分かゝつたといつてゐます。これは日本の演出法上の参考にもなると思ひます。
 この上演は、アントワヌ一派、及び当時の新興演劇、その他演劇の革新運動に携はつてゐた若い連中からは、非常な感激を以つて迎へられたのですが、古い批評家、殊にフランスのアカデミックな批評家からは、可なりの嘲笑を以つて迎へられたのでした。
 どういふ点が気に入らなかつたかといふと、「リヤ王」に属する悲劇、「リヤ王」を一つのタイプとする悲劇に対する趣味の相違からです。ファゲによれば「リヤ王」はシェイクスピアの中の駄作だ、なるほど、ところどころいゝところもあるが、要するに一個のメロドラマたるに過ぎない、この作者は、一方で、世界中の誰も真似の出来ないやうな物を書いてはゐるが、「リヤ王」だけは誰にでも書ける、俺にでも書けると云はんばかりな顔をしてゐます。
 それから二十世紀のフランスの新劇運動では――既に御承知と思ひますが、例へば、〔Ge'mier〕 といふ役者は、「じやじや馬馴らし」「ヴェニスの商人」等をやつてをり、例のヴィユー・コロンビエのコポオは、「冬の夜話」や「お気に召すまゝ」等をやつてゐます。この二人はフランスの最近演劇の中心人物でありますが、二人とも大のシェイクスピア党であります。
 次ぎに、注意すべきは、かういふ演劇の実際運動に携はつてゐる人達ばかりでなく、文学者間にも、以前にもまさるシェイクスピア熱が勃興してゐることです。まづ第一に、〔Andre' Gide〕――この人は、シェイクスピア党の親方といつてもいゝ位で、その評論中にシェイクスピアを讃美してゐるばかりでなく、「アントニーとクレオパトラ」や「ロメオとジュリエット」を翻訳し、なほ幾つかの自作脚本――例へば「サユル」或は「ウヂイプ」などの中にも極めて濃厚なシェイクスピアの匂を漂はせてゐます。
 大戦後は、皆さん御承知の如く、フランスで僅々二三年間ではありましたけれども、新劇連動の非常に盛んな時代がありました。それはちやうど私がパリに行つてゐる頃でしたが、その頃のシェイクスピア熱といふものは、殆んど彼れはフランスの古典作家であるかのやうでした。
 以上で、ざつとシェイクスピアがフランスに入つて以来の動静をお話したわけであります。最後に申し添へたいことは、そもそもフランス人は果して能くシェイクスピアを理解し得るか、といふことであります。フランス人と一概に申しても、中にいろいろな性格の人間がありまして、その感受性にも、想像力にも、等差があります。但しフランス人の著しい性癖は不自然を嫌ふといふことと、物を先づ分析してかゝるといふことです。この二つの性癖が、シェイクスピアを十分に理解し、味得する上の一つの妨げとなつてゐるといふことはほゞ想像し得られるのであります。エミール・ファゲにしろ、或ひは Lemaitre といふやうな、いはば非常に悧巧な、頭のいゝ批評家でさへも、シェイクスピアの殆んど三分通りはわからなかつたやうな批評をしてゐます。例のゲーテが言つてゐますやうに、シェイクスピアは次第にわれわれの眼前にその作品の神秘なものを展開してくれるのであるが、そもそも作品の何処にその謎の言葉があるかといふことは容易に明言が出来ないのです。フランス人はその何処に謎の言葉があるか容易に言へないのがもどかしいのです。そして、そのもどかしいのがフランス人にとつては禁物なのです。フランス人はどういふ微妙なことでも、明言しなければ承知しない。言ひ表はさなければ承知しない。また言ひ表はせるといふ確信をもつてゐる。そして、その自尊心を甚だ傷つけるのがシェイクスピアの作品であるのです。で、ジェミエは言つてゐます、人類の最後のゼネレイションに到つて、初めてシェイクスピアの新しい意味が解かれるだらうと。これはシェイクスピア党にとつては甚だわが意を得た言葉であると同時に、ちよつと擽つたい言葉でもありませう。人類の最後のゼネレイションといふと、何十万年後でありませうか、その時にならなければシェイクスピアが解らない――とも言へますし、また、今日は今日として、よくシェイクスピアが解つてゐても、更に後の時代になれば、シェイクスピアは更に新しい姿になつて生れ代つて来る――といふ風にも解釈されるのです。フランス人中には、かういふ見方をしてゐる者もあるのです。
 さて余談ですが、フランスでは――シェイクスピアが入つたのは十七世紀の終り乃至十八世紀の初めからですから、もう可なり年月も長いのですが、その間に、実に多くの人がシェイクスピアに関心を持ち、その作を愛読し、殊に文学者、中でも作家殊に戯曲家は、シェイクスピアの翻訳をして、国人にこれを紹介し、且つ自分の参考にしてゐるといふ人々が大勢あつた。にも拘らず、シェイクスピアは、実際なかなか外国人の間にそのほんたうの姿を現はさないのです。わが日本ではシェイクスピアが紹介されてからまだあまり久しくない。ところが、坪内先生の名訳が早く出た為か、研究的ないゝ訳も別にあることはありますが、更に違つた立場から、深く作品の精神を探らうとする翻訳者があまり出ないやうな現状であるのは遺憾です。あまり名訳の定評ができすぎてその為に後の人が多少憚つて手をつけかねてゐるといふやうなことも一の理由であらうと思ひますが、思ふにこのシェイクスピア協会設立の御趣旨は、寧ろ坪内先生の名訳をして日本における定訳たらしめないといふやうなことにもあるのではないでせうか。どうか、シェイクスピア協会は将来に於いて益々シェイクスピア熱を日本で煽つていたゞきたい。そして日本でもかのジェミエが後の時代になつてこそシェイクスピアの新しい姿が解ると言つた、せめてその一部分をでもわれわれ日本人のなかで発見する人が出て来る日のあるやうにと期待する次第であります。

[#ここから2字下げ]
昭和六年四月日本シェイクスピア協会の主催にかゝる講演会の速記で同会々報第二号に載つたものである。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「日本シェイクスピア協会会報2」
   1931(昭和6)年12月30日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング