フランスに於けるシェイクスピア
岸田國士

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(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ロナで、

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(例)〔Abbe'−Pre'vost〕
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http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 嘗てイタリーへ旅行しました時、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ロナで、或るシェイクスピアの作中のそれのやうな月のいゝ晩に、市中を歩いてをりますと、「ロミオとジュリエットの墓」といふ標札が目に附きました。多分、後人の拵へ物だらうと疑ひながら、その墓の中へ入つて行きますと、墓の中には、大理石の大きな棺桶がたつた一つ。「ロミオとジュリエットの墓」なら二つありさうなものと思つて、捜して見ましたけれども、見つかりませんでした。しかしその一つが可なり大きいので、今日の人間なら二人分だとも見えます。二人ゆつくり並んで寝られるほどの棺でありますが、その棺の中には、無論ロミオの頭蓋骨もなく、ジュリエットの腕の骨一つ入つてゐないのでした。うす暗くて、よくわかりませんでしたが、奥の方にはイタリー特有の糸杉の立木があつて、そこに何かの胸像らしいものが真白に浮き出てゐました。近づいて見ると、それはシェイクスピアの胸像でありました。棺を見ただけでは別にどういふ感じもなかつたのですが、その胸像を見ると共に、一種厳粛な、荘厳な気持に打たれ、実際自分が「ロミオとジュリエット」の舞台の人物といふほどでもありませんが、殆んどその時代にゐて、その物語りを直接に感じてゐるやうな気がしたのでした。同時に、その作者シェイクスピアは何国の人間であるかなどといふことを少しも考へずに、たゞもうわれわれのシェイクスピアだといふ風に思つて、なつかしみを感じたのでありました。
 御註文の「フランスにおけるシェイクスピア」といふやうなことについては、さしあたり纏まつた知識も持合せてをりませんが、折角のお需めですからざつとした御報告を試みようと思ひます。
 まづ、シェイクスピアがどういふ風にしてフランスに入つて来たかといふこと――これは、今日ではもう可なりはつきりしてをります。フランスでは、十七世紀までには、シェイクスピアといふ名前は、ほんの一人か二人の人の書いたものに遺つてゐるだけで、偉大な劇詩人としては、全く紹介されてゐなかつたのであります。この一人か二人は、しかしながら、非常に英国の芝居に通じた人でした。二人とも、久しくイギリスに往つてをり、帰国してから、その見聞を発表したのです。一人は Saint−Aman、もう一人は Saint−Evremont です。いづれも、英国の劇を紹介しましたが、作者としてはベン・ジョンソンを主としてゐます。シェイクスピアの名は挙げてゐません。殊にサンテヴルモンは、ウェストミンスクアに長くゐて、非常に芝居を沢山見てをり、そしてベン・ジョンソンの作を激賞してゐますが、シェイクスピアには一言も触れてゐません。但し或人の調べに依ると、中に「作者不詳」、――つまり歌でいふ「読人知らず」――の古い戯曲が、当時ロンドンで上演されてゐたことを書いてをり、さうしてそれはベン・ジョンソンの作に比するに足る立派な作品だが、たゞ非常に冗長で、無駄がある、その無駄を刈り取つてしまへば、なかなか立派な芝居になるのだが、といふ風な、簡単な説明が添へてあるのです。で、或人は言ふのです、恐らくサンテヴルモンは、当時まだ作者名不明のシェイクスピアの作品を嗅ぎ当てたのではなかつたらうか、すると、彼れこそシェイクスピアの最初の紹介者ではあるまいかと言つてをります。
 ところが、こゝに Nicolas−Clement といふ人があります。この人は十七世紀の王宮の図書館の司書でありまして、沢山のカードを作つてゐますが、そのカードの中にシェイクスピアといふ名前が見えます。そしてその説明として、イギリスの劇作家、非常に生気に富んだ、力強い作品を発表したが、その中には可なり粗野な惨虐な部分があつて、フランス人の嗜好には適しない、云々と書いてあるのです。以上がまづ十七世紀におけるシェイクスピアについての紹介です。まだもう一人ありますが、それは略します。
 といふ風で、十七世紀に於てはフランスで殆んどシェイクスピアは知られなかつたといつていゝのですが、十八世紀になると、シェイクスピアの偉大さを十分に一般に徹底させた文学者がありました。これは御承知の『マノン・レスコオ』の作者 〔Abbe'−Pre'vost〕 です。彼はシェイクスピアのことをそのイギリス滞在中の感想記“Le Pour et le Contre”中に書いてゐます。この書名は、イギリスにはいゝところもあれば悪いところもあるといふやうな意味で、「英国是非」とでも訳しませう歟。それは一七三三年のことです。その翌年、例の Voltaire が、――シェイクスピアを大速力で読んだものと見えまして――、矢継早にシェイクスピア評論を書き始めました。で、フランス人一般がはじめてシェイクスピアに注意を向けるやうになりました。ヴォルテールは、御承知のやうに、文学的にもまた思想的にも、一種の革命家でありましたから、そのシェイクスピア紹介の勢ひは、いはば今日の新人がマルクスを日本に紹介するのに似てゐたらうと思ひます。彼れのシェイクスピアに関する解釈、理解に対しては大分問題がありますが、とにかく彼は口を極めてシェイクスピアを賞讃してゐるのです。そして自分もシェイクスピアの作に摸して、多くの脚本を発表したのみならず、おれはシェイクスピアから影響を受けたと自白してもゐるのです。そしてヴォルテールすらもシェイクスピアの影響を受けたといふことはフランスの舞台芸術に一種の革命を齎した所以であります。
 ヴォルテールについで Ducis(デュシス)といふ作者が、シェイクスピアの翻案をしきりに始めました。「ハムレット」、「ロミオとジュリエット」、「リヤ王」、「マクベス」、「オセロー」、かういふものがどんどん翻案となつてフランスの舞台に現はれました。その後、一七七六年に Letourneur といふ人が、シェイクスピアの翻訳を完成しました。ところが、その翻訳が完成すると、ヴォルテールは非常に苦い顔をしました。その苦い顔は、当時彼れが発表したシェイクスピア論の到る所に見えてゐます。これは甚だ奇妙な現象でありました。ヴォルテールの態度が目立つて変りました。シェイクスピアには、なるほど、多少いゝところもあるけれども、概していふと、趣味が下劣で、野蛮で、一口に言つて見れば、気狂ひが酔つぱらつてるやうなもんだ、云々。かういふ暴評をしたのであります。ところが、その当時には既にフランス内にシェイクスピア党が可なりあつたのですから、この暴評を聞き捨てにしませんでした。当時の批評家達は挙つてヴォルテールの変節を怒つたのでありました。
 が、この「変節」について、最近おもしろい意見を発表してゐる一学者があります。それは Emile Faguet といふ劇評家兼アカデミイ会員です。(もう亡くなりましたが)この人はその一著の中で、右の「変節」について弁護をしてゐる。自分は一体ヴォルテールが非常に好きで、いつでも彼のためには弁護の地位に立つ者だが、右の「変節」問題についても一言弁じたいと前提しまして、ヴォルテールはシェイクスピアの第一の紹介者として功労があるのみならず、シェイクスピアを善く理解し、その偉大さを十分芸術家的に味得した、今日迄の有数な人の一人である。従つて、ヴォルテールが最初シェイクスピアを非常に褒めて紹介をした時と、その後何十年かの後に、彼れを殆んど罵倒せんばかりに批評をした時と、必ずしも考へは変つてゐない。たゞ、初めて紹介した時のヴォルテールは一種の革命家であつたからシェイクスピアの長所を強調するに力めた。ところが数十年経つて後には、ヴォルテールは、文学的にも思想的にも、既に一個の反動家となつてゐたのである。だから、その当時余りに世間にかつぎ上げられてゐるシェイクスピアに対して、寧ろその悪いところを強調して警戒したに過ぎない、だから変節ではない。――といふのである。
 ヴォルテールの「変節」の動機に関しては、もう一つおもしろい個人的な理由がありました。さつき申したルトルヌウルといふシェイクスピアの翻訳全集を出した人は、劇評家でもありましたが、この人がフランスの戯曲家総論といふやうな本を書きましたが、その書物のなかに、「フランスにおける偉大なる劇作家」といふ項目がある。それにはラシーヌ、モリエール、コルネイユ、マリヴォー、さういふ人を入れてゐながら、ヴォルテールの名前を入れなかつたのです。そこでヴォルテールは、そのルトルヌウルに対する反感から、シェイクスピアを同時にやつつけたんだといひます。これは甚だヴォルテールらしい、天才的な態度であつて、われわれは到底まねることが出来ないといふことを、ファゲがフランス式の諧謔まじりで書いてをります。
 十九世紀になつては、例の Stendhal が、一八二三年に「ラシーヌとシェイクスピア」といふ題で一大論文を発表してゐます。彼はフランス劇壇では神の如く祀り上げられてゐるラシーヌをシェイクスピアに較べて、今日われわれの学ぶべきはシェイクスピアである、今の人間の心を写す上からも、今の劇場を通して民心に愬へる上からも、もうラシーヌではいけない、すべからくシェイクスピアに学ぶべきだといつてゐます。この論は一八二三年に出版されました。と、一八二七年に英国から一劇団が来て、パリで公演しましたが、その上演目録は殆んどすべてシェイクスピアの物でありました。この中には、例のイギリスの名優 Kean、それから Kemble、それから Smithson といふやうな人がをり、そしてパリで上演したのですから、単にフランスの劇団のみならず、文壇、延いて一般民衆間にも非常なセンセイションを惹き起しました。当時の劇評を読んで見ると、その騒ぎの甚だしさが察せられます。が、誰にでも、とかく国自慢といふことがありますから、フランスでも、シェイクスピアを一面では非常に感心しながら、他面では何か難癖を附けたり、ある批評家らは、いや、惨虐に過ぎる部分が多過ぎるとか、悪趣味に堕してゐるところがあるとか、非難的な結論を添へてゐるのです。しかしこの英国劇団のパリ公演といふことは、殆んどフランスに於ける浪曼派劇の革命的事件であつて、これによつてフランス浪曼派の劇的運動が、一層はなやかに行はれたとも言へるのです。
 当時のフランスの浪曼派の詩人達は、イギリス乃至ドイツの詩風に動かされてゐたのですが、シェイクスピアには特に傾倒してゐて、Alfred de Vigny の如きは、「オセロー」や「ヴェニスの商人」を翻訳してをり、Alfred de Musset――これは今日フランスの劇作家として代表的な作家でありますが――これもやはりシェイクスピアに負ふところが非常に多いのであります。ミュッセの書いた物には必ずシェイクスピアの名前が出て来る。で、ミュッセは、十七歳で文学者にならうと志望し、宣言のやうな物を書いてゐますが、その中に、俺はシェイクスピアたらざればシルレルたらんといふことを言つてゐます。彼れは二十歳で初めて戯曲を書いた。「ヴェニスの夜」といふ戯曲です。この作のエピグラフに、「オセロー」の中の文句を書き入れてゐるくらゐです。が、ミュッセは、その後フランスの古典を研究した結果、自国の大作家ラシーヌに対しての理解が深まるとともに、それに傾倒したものの、なほシェイクスピアに対する崇拝の念を捨てることが出来ず、否、ラシーヌを読むことによつて、一層シェイクスピアの長所がわかつたといふ風に、そこ
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