、今の劇場を通して民心に愬へる上からも、もうラシーヌではいけない、すべからくシェイクスピアに学ぶべきだといつてゐます。この論は一八二三年に出版されました。と、一八二七年に英国から一劇団が来て、パリで公演しましたが、その上演目録は殆んどすべてシェイクスピアの物でありました。この中には、例のイギリスの名優 Kean、それから Kemble、それから Smithson といふやうな人がをり、そしてパリで上演したのですから、単にフランスの劇団のみならず、文壇、延いて一般民衆間にも非常なセンセイションを惹き起しました。当時の劇評を読んで見ると、その騒ぎの甚だしさが察せられます。が、誰にでも、とかく国自慢といふことがありますから、フランスでも、シェイクスピアを一面では非常に感心しながら、他面では何か難癖を附けたり、ある批評家らは、いや、惨虐に過ぎる部分が多過ぎるとか、悪趣味に堕してゐるところがあるとか、非難的な結論を添へてゐるのです。しかしこの英国劇団のパリ公演といふことは、殆んどフランスに於ける浪曼派劇の革命的事件であつて、これによつてフランス浪曼派の劇的運動が、一層はなやかに行はれたとも言へるのです。
 当時のフランスの浪曼派の詩人達は、イギリス乃至ドイツの詩風に動かされてゐたのですが、シェイクスピアには特に傾倒してゐて、Alfred de Vigny の如きは、「オセロー」や「ヴェニスの商人」を翻訳してをり、Alfred de Musset――これは今日フランスの劇作家として代表的な作家でありますが――これもやはりシェイクスピアに負ふところが非常に多いのであります。ミュッセの書いた物には必ずシェイクスピアの名前が出て来る。で、ミュッセは、十七歳で文学者にならうと志望し、宣言のやうな物を書いてゐますが、その中に、俺はシェイクスピアたらざればシルレルたらんといふことを言つてゐます。彼れは二十歳で初めて戯曲を書いた。「ヴェニスの夜」といふ戯曲です。この作のエピグラフに、「オセロー」の中の文句を書き入れてゐるくらゐです。が、ミュッセは、その後フランスの古典を研究した結果、自国の大作家ラシーヌに対しての理解が深まるとともに、それに傾倒したものの、なほシェイクスピアに対する崇拝の念を捨てることが出来ず、否、ラシーヌを読むことによつて、一層シェイクスピアの長所がわかつたといふ風に、そこ
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