いて、最近おもしろい意見を発表してゐる一学者があります。それは Emile Faguet といふ劇評家兼アカデミイ会員です。(もう亡くなりましたが)この人はその一著の中で、右の「変節」について弁護をしてゐる。自分は一体ヴォルテールが非常に好きで、いつでも彼のためには弁護の地位に立つ者だが、右の「変節」問題についても一言弁じたいと前提しまして、ヴォルテールはシェイクスピアの第一の紹介者として功労があるのみならず、シェイクスピアを善く理解し、その偉大さを十分芸術家的に味得した、今日迄の有数な人の一人である。従つて、ヴォルテールが最初シェイクスピアを非常に褒めて紹介をした時と、その後何十年かの後に、彼れを殆んど罵倒せんばかりに批評をした時と、必ずしも考へは変つてゐない。たゞ、初めて紹介した時のヴォルテールは一種の革命家であつたからシェイクスピアの長所を強調するに力めた。ところが数十年経つて後には、ヴォルテールは、文学的にも思想的にも、既に一個の反動家となつてゐたのである。だから、その当時余りに世間にかつぎ上げられてゐるシェイクスピアに対して、寧ろその悪いところを強調して警戒したに過ぎない、だから変節ではない。――といふのである。
 ヴォルテールの「変節」の動機に関しては、もう一つおもしろい個人的な理由がありました。さつき申したルトルヌウルといふシェイクスピアの翻訳全集を出した人は、劇評家でもありましたが、この人がフランスの戯曲家総論といふやうな本を書きましたが、その書物のなかに、「フランスにおける偉大なる劇作家」といふ項目がある。それにはラシーヌ、モリエール、コルネイユ、マリヴォー、さういふ人を入れてゐながら、ヴォルテールの名前を入れなかつたのです。そこでヴォルテールは、そのルトルヌウルに対する反感から、シェイクスピアを同時にやつつけたんだといひます。これは甚だヴォルテールらしい、天才的な態度であつて、われわれは到底まねることが出来ないといふことを、ファゲがフランス式の諧謔まじりで書いてをります。
 十九世紀になつては、例の Stendhal が、一八二三年に「ラシーヌとシェイクスピア」といふ題で一大論文を発表してゐます。彼はフランス劇壇では神の如く祀り上げられてゐるラシーヌをシェイクスピアに較べて、今日われわれの学ぶべきはシェイクスピアである、今の人間の心を写す上からも
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