長岡のデュオは、まだこの「生活の味」をこなし切れないことが最大原因でもあらうが、少くとも、あの写実的科白の堆積から滲み出るファンテジイ、日常茶飯のビュルレスクは、「文学的に」誰でもが捕へ得る程度のものである。それを、あの程度まで逸して、どこに、俳優としての面目があらう。私が恐れたのは、ただ、柄の問題だけである。さぞ、青年らしいトリエル、淑やかなヴァランチイヌが出来上ることであらうと思つてゐただけだ。殊に、私が意外に思ふのは、あの脚本のテンポを、何故にああのろのろとしなければならなかつたかといふことだ。不必要で不都合な、つまり見当違ひの「間」をやたらにおき、ために、作者の覘つた瞬間的ユウモアが無残に沈黙の闇中に葬り去られた。最も解り易い一例を挙げれば、ヴァランチイヌが里へ帰ると云ひ出して一度室外に去り、再び「百五十フラン」をねだりに来る場面の如き、たしかト書にもあつたと思ふが、「姿が消えたと思ふと、すぐ引つ返して」来るところに、芝居でなければ味へない可笑味があるのであつて、あそこに、もぞもぞと「間」をおかれては、全く作者クウルトリイヌは泣くのである。皮肉のやうだが、金杉君は嘗て私の演出し
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