りとしか思へなくなるかも知れない。
 これは註釈を付するまでもなく、少し欧羅巴の都会生活、殊に巴里の生活といふことを考へたら、今日日本の知識階級の男女が好んで使ふほどの言葉は、職工や女売子が平気で日常口にしてゐる程度の言葉だといふことぐらゐわかる筈である。
 学問と頭、思想と考へ、これは別物である。現代の日本では、学問をしないと頭が出来にくい。思想がないと考へが述べられない。さういふ傾きがある。これは社会がさうなつてゐるからだ。
 もう一方、西洋では、学問のある人間と、学問の無い人間と、そんなに違つた言葉を使はない。日本ではその差がひどい。
 西洋の作家は、学問の無い人間に面白いことを言はせる。それを日本語に訳すと、日本でなら学問のある人間しか使はない言葉になる恐れがある。然し、敏感な読者は、さういふ言葉を通しても、「言はれてゐること」が、いろいろの動機から、思想や学問と縁の遠いものであることがわかつて来る。それが一つの場面を通してその人物の学問や教養の程度を決定することになるのである。
 ルナアルの描く人物は、必ずしも常に機智に富んだ人物ではない。ルナアル自身の目からは、その機智すらも愚かなる衒気と見えるやうな人物が可なりある。それに、作品そのものは極めて才気煥発といふ感じがする。極めてスピリチュエルである。これは、作中の人物を透して、作者の機智が光つてゐるのである。人物の言葉に耳を澄ましてゐる作者の目――その目つきが、人物以上に物を言つてゐるのである。これは、ルナアルに限らず、優れた喜劇作家の目附である。繊細な心理喜劇が往々浅薄扱ひを受けるのは、此の「作者の目」が見逃され易いからである。
 ルナアルは断じて浅薄な作家ではない。
「赭毛」(Poil de Carotte)は、彼の同題の小説から材を取り、千九百年三月、アントワアヌ座で上演された。
 ルピック氏の役はアントワアヌ自身が買ひ、「赭毛」にはシュザンヌ・デプレ夫人が扮し、文字通り芸術的舞台の標本を示した。
 現在では、国立劇場コメディイ・フランセエズの上演目録に加へられてをり、ベルナアルとボヴィイの当り芸になつてゐる。
「赭毛」といふ訳語は山田珠樹君流で、名訳に違ひないが、原名を直訳すると「人参色の毛」で、此の髪の毛をもつて生れた人間は、ただ髪の毛が妙に赤いといふだけでなく、顔に斑点があり、体質も何処か畸形
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