ういふことがあつたとしても、ある程度までそれを許すことが、僕にはできたらうと思ふんです。家内《かない》が求めるものを悉く与へる力が、僕にはなかつたんですから……。
声――それなら、君は嫉妬といふものを感じたことはないか?
男――…………。
声――あるのか、ないのか?
男――それや、ないとは云へません。しかし、さういふ場合に、自分を嗤《わら》つてしまへばそれまでです。僕は女を信じないで、それをさほど苦痛とは思ひませんでした。家内《かない》も、さういふ点では僕に対して、これといふ隙を見せず、自然言ひがかりをつけやうにも、つける種《たね》がなかつたんです。
声――たゞなんとなく怪しいといふやうな素振りがあつたんだね。
男――あゝ、さういふ風に取れましたか。僕はそんなことを言つた覚えはありません。女を信じないのは家内《かない》と限つてはゐないんです。いや家内《かない》のことにしてもです。信じないといふ意味は疑ふ必要がないといふことです。瞞されても、瞞されたことにならないからです。さつき、嫉妬を感じたことがあるといふ風に云ひましたが、それは、例の愚にもつかない妄想の類《たぐ》ひで、女を愛したものなら、必ず一度は経験しなければならない情熱の小さな波紋です。
声――嫉妬の説明はそれくらゐでいゝ。それで君はこれまでさういふ感情を細君の前で、どんな風に現はしたか? 一例を挙げてみ給へ。
男――…………。
声――どんな場合でも、そいつを顔に出さなかつたとは云へないだらう。
男――待つて下さい。さういふ訊《き》き方をされると、僕は、なんて返事をしていゝかわからなくなります。自分の醜さを、正直に語れと云はれるなら、それはなんでもないことです。しかし、その後《あと》はどうなります。僕は今、罪の嫌疑から逃れなければならない人間です。そこをどうか、十分頭にお置き下すつて、自分に不利だと思はれることを包まず申上げる勇気をお買ひ下さい。僕は司直の明察に信頼します。真実はどんなに醜《みにく》くつても、罪がそこからだけ生れるとは限りません。
声――前置が長すぎる。事実を聴けばいゝのだ。
男――さうです。えゝと、もう一度問ひを云つて下さい。
声――だからさ、君が細君に対してなぜ嫉妬を感じたか、さういふ時、君はどんな態度を取つたか、それを訊《き》いてゐるのだ。
男――わかりました。実を云ふと、家内《かない》を診《み》てもらつてゐる医者が、最近どうも家内に対して、特別に好意を寄せてゐるらしいんです。こちらの内情を知つてからではありますが、診察料も一切取りませんし、来れば必要以上に長話をして行きます。そのうへ、僕の留守中に来て、庭にダリヤの球根を植ゑて行つたり、他所《よそ》から貰つたのだと云つて、香袋のやうなものを家内の枕の下へ突つ込んで行つたりします。それを知つた時、僕はたゞ笑つてゐてやりました。が、その後ある時かういふことがありました。僕が東京から帰つて来て、玄関の格子を開けようとすると、中から錠をおろしてある。それだけなら不思議はないんですが、庭へ廻つてみると、障子が閉《し》めきつてあります。声をかけると家内より先に「お帰りなさい」といふその医者の返事が、部屋の中から聞えるんです。「はてな」と思ひましたが、それきりです。僕は平気な顔をして上つて行きました。家内《かない》は寝台に寝ころんで、今診察が終つたところでした。医者は聴心器をしまひながら「大分いゝやうです。もう大丈夫でせう」と云ひますから、僕は笑つて「や、お蔭さまで」と、自分ながら不思議なくらゐなんの蟠《わだかま》りもなくいつてのけました。医者が帰つてから、家内は玄関の戸締りのことについて、なにやら弁解がましいことを云ひました。僕はそんなことは気にかけてもゐないやうに、今日は招魂祭だのに、国旗を出し忘れたといふやうなことを喋《しやべ》つたと思ひます。かう申上げると、すぐに、それは不自然だとお考へになるだらう。全くその通りです。僕等としては、修養でそこに至つたなどと云へば、それは真赤な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だといふことがわかります。そこが先程も云ひましたやうに、真実の醜さです。僕にさういふ真似《まね》をさせたのは、露骨に云へば打算です。勘定です。つまり、家内の病気が、あの医者の手で直るものなら、自分は一切眼をつぶつてゐよう――さう決心をしたんです。
声――で、二人の関係が何処まで進んでゐるか、それを君は知つてゐるんだね。
男――いや、知りません。知る必要もありません。医者は家内に対する特殊な興味から、商売を離れて治療に全力を尽してくれればよし、家内は、僕に気兼なく医者の指図に従つてくれゝばいゝんです。それが恋愛であらうとなからうと、結果は同じです。いや、寧ろ、ほんたうの恋愛であることが、一番好い結果を生むわけです。
声――君は真面目《まじめ》で、そんなことを云つてるのか。
男――え? どうしてですか。それで、この僕はどうなるとおつしやるんですか。
声――細君の病気が直つて、その医者との関係が続いてゐる場合を考へてみ給へ。それでも君は一|切《さい》眼をつぶつてゐられるか。
男――(急に焦《い》ら焦《い》らして)なんですか? さういふ場合、僕がどうするかとおつしやるんですか? それは考へてゐません。そんな先のことは、まるで考へてゐません。そん時は、そん時で、何か方法があると思ひます。家内は僕を棄てる筈はありません。
声――落ちついて物を言ひ給へ。君はしかし、細君がもう可なり元気になつてゐたと云つたぢやないか。
男――…………。
声――その医者が、最近来たのは何日《いつ》だ?
男――先週の金曜です。毎週金曜に来ることになつてゐます。
声――その医者は何処の医者だ。なんといふ医者だ?
男――…………。
声――どうせわかることだから、早く云ひ給へ。
男――…………。
声――念の為めに訊《き》くが、その医者は君の考へてゐるやうな事実を否認するかもわからない。恐らく否認するだらう。君は、それに対して何か証拠を挙げられるか?
男――証拠と云つて、別に、確かなものはありません。第一、そんなことはどうでもいゝんです。今度の事件となんにも関係はないんですから……。
声――それはどういふんだね。君にどうしてそれがわかる?
男――いや、僕の云ふのは……その医者が犯人……つまり、家内《かない》を殺したのではなからうと云ふんです。さういふ理由がどうしても成り立たないんです。
声――余計なことを云はなくつてよろしい。この部屋は君がはひつて来た時のまゝになつてるね。
男――家内のからだは、多少位置が変つてゐます。
声――この辺が散らかつてるのは……。
男――あ、それは僕が……。
声――何を探したんだ?
男――失《な》くなつてゐるものはないかどうか、それを先づ調べました。窃盗の目的ではひつたとすると……。(突然調子を変へ)あゝ駄目、駄目、なつちやゐない。しどろもどろだ。(静かに妻の死骸に近づき)シイ坊、やつぱりおれは、生きてゐようといふのが間違ひだつた。お前を失ふ悲しみは二つはない筈だ。おれは二度、三度、お前の死を間近に控へて、心に祈つたものだ――「この女の命を救つてくれ。おれはどうなつてもいゝ……。」が、お前の命を救つた男は、おれの手からお前を奪はうとした。事実、奪つたのだ。近頃のお前は、日増しに、美しさと明るさを取戻して来た。しかも、それはあの男によつて、あの男の為めにだ。だが、それはそれでよかつた。おれはたゞ、来るべきものが来るのを待つてゐたのだ。それが、遂に来た。明日は、いや、今日は、また金曜日だ。籾山は、こなひだのやうに、お前を海岸へ連れ出すだらう。散歩の附添は、おれにでも出来る。しかし、お前の心はもう、おれの行くところへ従《つ》いては来ないんだ。そんなら、そんなら、どうしようもないぢやないか。
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長い沈黙。その間に、男は、女のからだを抱き上げ、寝台の上に寝かせ、それを、敷布で覆ふ。
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男――(長椅子にからだを横へ)おれは、しばらくかうしてゐよう。あいつがどんな顔をするか見てゐてやるぞ。おれは、誰がなにを訊ねても、決して返事をすまい。おれは悲しくもなければ怖ろしくもない。たゞ、あの時におれもひと思ひに死ねなかつたことが残念なだけだ。(ポケットから短刀を取り出し、鞘を私ふ)あゝいふ風にしなくつても、おれと一緒に死ねと云へば、存外なんでもなく、その気にならなかつただらうか?(半身を起し)さうだ。シイ坊……お前はさういふところのある女だつたな。すつかり忘れてゐた。おれが学校を馘になる間もなく、お前が恐ろしい病気の宣告を受けた。すると、そん時、お前は、何んと云つた。「あんた、死んぢまひたくない?」たしか、さう云ひながら、おれの膝へ泣き崩れた。今と、その当時とは、お前の気持にも変化はあるだらうが、二人を死に誘ふ動機と云へば、あの時よりも、今度の方が重大だとは思はないか。シイ坊! それがわかつてくれゝば、おれは、今、お前に更《あらた》めて云ふぞ。――死んでくれ。おれと一緒に死んでくれ。(寝台に近づき)さあ、もう暗《くら》がりの必要はない。おれの顔をこの通りみせてやる。お前は素直におれの手にかゝつて死んだのだ。おれは、すぐにも、お前の後を追ふべきだが、シイ坊、少し待つてくれ。おれには、まだ一つ仕事が残つてゐる。籾山のうろたへる顔がちよつと見たいのだ。復讐なんて、けちな真似《まね》をするつもりはない。悪戯《いたづら》のしをさめだ。お前は、さうして、静かに眠つてゐるがいゝ、この世の花々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を、遠くから、笑つて見ておいで。(部屋の中を、また歩き廻る)――やあ、先生、長々お世話になりました。お蔭で、家内も、お医者さんの必要がなくなりました。――はゝあ、もうこちらをお引上げですか?――こちらもこちらですが、われわれは、今日限り、人生を引上げます。さあ、家内が御挨拶を申上げるさうです。
声――あツ! これはどうしたといふんです。え? 一体、どうしたんです。
男――御覧の通りです。こいつは、ある男の誘惑を逃れるために、いや、その誘惑に打克つために、死を択ばなければなりませんでした。僕のためにです。おわかりですか。われわれ夫婦は、さういふ間柄になつてゐたのです。死ぬ以外に二人は結びついてゐられないといふ事実、その事実の前に、何の躊躇がいりませう。僕は、先づ、こいつの心臓を突きました。
声――わかりません。わたしには、さつぱりわかりません。
男――いゝえ、あなたに御迷惑はかけないつもりです。それどころか、こいつにしばらくの希望と幸福とを与へて下すつたことでは、僕から幾重にもお礼を申上げます。
声――わたしは、医者として、出来るだけのことをしました。
男――さうです。信じたいものは、さう信じるでせう、僕は……(よろめく)あゝ、誰を……何を信じればいゝのだ。(急に女の寝てゐる寝台の前に跪《ひざまづ》き)おい、シイ坊……おれは、ほんたうのことを云ふと、なんにも知らんのだ。お前は、何をしたといふのだ。え? なんでもなかつたのか? なにもなかつたのか? うん、それは無論、さうだらう。だが、これから、先は? 来週の金曜は? 再来週は? いや、さうぢやない、もつと先の先は? わかるまい? おれには、それがわかつてゐるのだ。わかつてゐたのだ。お前は健康だ。お前は美しい。お前は若い。お前は明るく、賑やかだ。お前は何処へ行く? 誰がお前を幸福にし、お前に感謝されるのだ! あゝ、おれはどうすればいゝんだ。(手に持つた短刀を胸にあて、ぐいと力を入れて、そのまゝ女の死体の上に突つ伏す)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]幕
底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「文芸春秋 第十
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