カルナツクの夏の夕
岸田國士
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)林檎酒《シイドル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)月給四百|法《フラン》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)カン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ス
−−
画家のO君から手紙が来て、静かな処だ、やつて来て見ろといふことでした。
細君からも何か書き添へてあつたやうに思ひます。
巴里から十何時間、ブルタアニュの西海岸で、その昔ケリオンといふ不思議な小人が住んでゐた処です。
宿はさゝやかなホテル・パンシヨン、国道を距てゝ美しい牧場などがありました。
海へも遠くはない。
聖堂の古風な鐘楼、広場の物語めいた泉水、それに、空は低く、森は黒ずんでゐました。
小川のへりに、牛が睡つてゐる。
女はレエスで髷をかくしてゐる。
カンナが赤く黄色く、食堂のテラスに咲いてゐました。
宿には、もう十人近くの客がありました。家族連れが多い。
夕食が済むと、みんなテラスへ出て、話しをしたり、歌を唱つたりしました。グラン・ギニヨル(物凄い芝居)の声色を使つて、女どもを喜ばせてゐる一癖ありさうな若者などもゐました。
ある晩、瓦斯会社に出てゐるといふM氏の細君が、「あなた方は若い方ばかりのくせに、どうして踊らうとなさらないの」と、さも心外らしく、一座の人達を見まはしました。
「ぢや、奥さん、ピアノをどうぞ」Sといふ工手学校の生徒がやり返しました。
食堂には、自働ピアノが置いてありました。
「僕は、風琴弾きを雇つて来ることを提議します」これはTといふ新聞記者でした。
「賛成」口々にかう叫んだ。
読者よ、今こゝで丁度月が出ることを許して下さるでせうか。そして、わたくしが少しばかり物想ひに沈んでゐることを……。
口髭を生やした大男が、風琴を提げてやつて来ました。
「リデエ!」
「リデエ!」
「リデエ!」
娘たちが騒ぎました。
リデエといふのはブルタアニュ特有の踊りなのです。
「さ、みんな輪になつて……」
郵便局の事務員、月給四百|法《フラン》のC嬢は、その弟の手を取りました。
「僕は、リデエなんか知らないよ」
「来ればわかるのよ」
わたくしは、O君の方を見ました。踊り好きの細君は、これもいやがるO君の両手を引張りながら、もう足だけは風琴の音に合はせてゐます。
「駄目よ、そんな顔したつて……」
わたくしは、どんな顔をしてゐたのでせう。多分、「君踊るかい」といふやうな眼つきをしてO君の方を見た、それなのでせう。それとも、「困つたことになつたなあ」そんな顔をしたかもわからない。O夫人は、御亭主とわたくしを両手に引据ゑて、「さ、あなたはマドムアゼルP……と手をおつなぎなさい。あんたは――と夫の顔を見て――あんたは、さうだ、マダムM、ねえ、ちよいと、奥さん、此の人の右の手を預かつて下さらない」
マドムアゼルP……と呼ばれた少女は、やゝはにかんでゐるらしく見えました。
此の憂鬱な東洋の青年が、恐る恐る差し出す手を、彼女はしばらく見つめてゐました。指は五本ある――彼女は、急に元気よくわたくしの手に飛びついて来た。実際、飛びついて来たのです。
人の輪が、静かに、左へ左へと廻りはじめました。
単調な、素朴な、そしてなんとなく神秘なその風琴の舞踏曲が、古めかしい民謡のもつ独特な世界へ人々の心を惹き入れました。
わたくしは、マドムアゼルP……と共に、手を振り、足を挙げました。さては、うろ覚えの歌の文句を、低く口吟んで見たりしました。おゝ、故郷の父母よ、同胞よ、そつちを向いておいでなさい。
わたくしはもう疲れて来た。一人列を離れて、林檎酒《シイドル》のコツプに、唇をあてました。マドムアゼルP……は、前よりも一層快活に踊つてゐるのです。そして、わたくしの方は一度も振向かうとしない。
おそろしく蒸し暑い晩でした。
マドムアゼルP……は、その日、水色の支那絹のロオブ、髪は何時もの通り二つに編んだお下げ、象牙まがひの腕環が細い手頸で遊んでゐました。
母親だとばかり思つてゐた、これはまた苦労人らしい中年の婦人は、彼女の伯母さんだといふことがわかりました。
その次ぎには、パ・ド・ルウを踊ることになりました。此の古典的な舞踏は、また若い娘たちをよろこばせました。逞しい騎士の群にまじる美しいプリンセスのやうに、彼女らは、軽く裾を取つて、しとやかに腰をかゞめるのでした。
マドムアゼルP……の真面目な顔を見て、わたくしも笑ふわけに行きません。
「あら、違つてよ」といふその眼つきに、惶てゝ歩を踏み直す時など、わたくしの
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング