興味をもち、その美しさを「描く」ために、彼女を自分の書斎に閉ぢ込め、毎日時間をきめて、その肉体と精神の「姿態」を観察するとしたら、世間はなんと云ふだらう。よしんば、彼女を一度も裸にしないでも、これは「問題」となるに違ひない。
私はある画家のアトリエを久しぶりで訪ねたが、その画家は、新しいモデルを手に入れたばかりのところで、大いに上機嫌だつた。彼はそのモデルを前において、あらゆる讃嘆の言葉を放つた。それは半ば私に聞かせるためであり、半ば彼女に聞かせるためである。或は、さう考へるのが既に私のお目出度いところで、実は、私の耳を通じて、その讃辞の悉くを彼女の耳に伝へてゐたのかもしれない。
私はそこで、この一組の男女が――画家なる男とモデルなる女とが――いかなる関係なればこそ、かくも同時に、幸福であり、得意であり得るかを疑つた。
第四に、自分の描いた絵を、一々、壁にかけて置いて、朝な夕な、煙草を吹かしながらそれを眺め暮せるといふことである。
なるほど、文士の書斎には、自著が行儀よく、本棚の中で背中を並べてゐるかもしれない。しかし、背皮の標題が語り得る範囲は、極めて狭く且つ漠然としてゐる。
ある画家はかうも云つた。――自分の絵が永久に自分の手許から離れて行く気持は淋しい、と。それには同感できないこともないが、その気持は、また考へやうによつて、なかなかロマンチツクでいいではないか。自分の本が、二足三文で夜店に晒されてゐるなどはあんまり散文的だ。
余談になつたが、われわれが自作を読み返す興味は、殆ど一つの努力に等しい。これに反して、画家は、さういふ努力なしに、過去の仕事を刻々振り返つて見ることができる。そして、自分の歩いて来た道を絶えずはつきりと見きはめ、そこからいろいろな刺戟と、慰藉と、希望とを汲みだすのだ。
画家のアトリエにはひつた時、われわれは、その家の主人を画家として以外に見ることはできない筈である。つまり、雑談の間にも、一度は「絵の話」がでる。「彼の絵」がさうさせるのである。ところが文士の書斎は、時には、実業家の応接室と選ぶところなく、温泉場の碁会所と選ぶところなく、停車場の待合室と選ぶところがない。「彼の本」は、実際背中を向けたままでゐるからである。
私はある時、初めて識り合ひになつた画家に伴はれて、深夜そのアトリエにはひつたことがある。屋根裏の薄暗い部
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