と云つても既に「或る動かすべからざるもの」を有つてゐるやうに思はれる。
ルノルマンは、将にさういふものを有たうとしてゐる作家である。
「憑かれたもの」「砂塵」「灼土」等の初期の作品は、一部の先見ある批評家をして、彼の未来を嘱目せしめたに過ぎなかつたが、戦後相ついで「落伍者の群」「時は夢なり」「熱風」「夢を啖ふもの」を発表して彼の声価は頓に著れた。殊に「落伍者の群」「時は夢なり」の二作は、たまたま名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によりて完全に舞台化され、彼の戯曲家的手腕は、初めて遺憾なく巴里の劇壇に紹介された。
その後「赤歯山《レ・ダン・ルウジユ》」「男とその幻」「悪の影」「卑怯者」等で、相当の成功を収めたと伝へられる。
私はここで、ルノルマンを如何なる意味に於ても、誤つて伝へたくない。彼は、優れた天分と信頼すべき芸術的良心とを有つた新劇開拓者の一人であること――その数ある作品は、何れも、相当深い思索と、充分に鋭い感受性と、殊に、稀に見る表現の的確さによつて、彼が「大器」たるの素質を示してゐること――その主題の新鮮さ、結構の自由さ、弾力に富む文体の朗らかな、そして底力のあるメロディー、それは常に、興奮と凝視と瞑想の、極めて特殊な「心理的詩味」を醸し出し、最近の仏蘭西劇壇を通じて、最も異色ある作家の一人となつてゐること――先づこれだけのことを言つて置きたい。
そして、わたくしは、かういふことをつけ加へる。
彼の今日までの作品は、少くともその手法に於て、決して斬新奇抜と云ふほどのものではない。それどころか、わたくしの観る処では――恐らく誰でも気のつくことであらうが――彼には「幾人かの先生」がある。
これは、前に述べた、現代仏国劇壇の傾向を物語る一つの好適例であるやうに思ふ。
彼は、これらの「先生」から、「貰ふべきもの」と「一時借りたもの」とを、まだ同時にもつてゐるやうな気がする。
「借りたもの」を返してしまふ時機が早晩来なければならない。
それから「貰つたもの」が、「自分で造つたもの」の中に、すつかり形を没してしまふ時機が来なければならない。
此の意味で、今日、彼に「偉大なる天才」の名を冠することは、まだ早いやうに思ふ。
彼の感受性は、しかく鋭敏であるに拘らず、その好奇心に、ややナイーヴなものがあることは否めない。その一つは、科学に対するそれで
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