つて、たうとう云ひ出すのを忘れちやつたわ……。ゐたつて、別にかまはないけど……。いや、たしかゐない筈だわ。西洋人つていふもんは、旅に出る時、奥さんの写真はきつと肌につけてるつて話だわ……。それに、指環は、はめてたかしら……? 何かはめてたやうだけど、エンゲーヂだかどうだか、気がつかなかつた……。会ふと、もう、そんなこと気にしてる暇はないんだもの……。さうさう、あたしの名前を書いてみせろつていふから、書いてやつたんだけど、あの字を覚えるつて云つてたわ。独りで書けるやうになつたかしら……? 藤岡八重子なんて、割にむづかしいわ。

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起ち上り
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――ラ……ウ……ル……リ……シュ……テン……メッ……ケル。これがまた、云ひにくい名つたら、ありやしないわ。面倒臭いから、ラウちやんつて呼んでたの。羅宇屋さんみたいで覚えいゝから……。「あたし、親子、ラウちやんは……?」すると、「ワタシ、ウドン」つていふにきまつてたわ。

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柱にもたれ
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――戯談《じやうだん》は別として、ラウちやんは、ほんとに行つてしまつたのかなあ……。あの、お得意の鼻唄が、まだ耳に残つてるわ。

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それを、調子や声まで真似《まね》て
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――フン、フン、フン、フウン……フン、フン、フン、フウン……フウン、フン、フン、フン、フン、フウン……。

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また、次第に、涙がこみあげて来る。
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――あたしが、これほどに想つてるのに、あの人は、平気だつたのかしら……? 平気で発《た》てたのかしら……。あたしのことなんか、てんで、思ひ出してもくれなかつたのかしら……? そんな筈ないわ。かうして、発《た》つた後へ、あたしが訪ねて来ることも、一度は考へてくれた筈だわ……。お神さんには、たゞの一と言も、あたしのことを云ひ置いて行かなかつたつていふんだけど、「来たら、よろしく」なんて云ふ方が、却つて空々《そら/″\》しいかしら……。かうなると、相手が日本人でないだけに、
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