わが演劇文化の水準
岸田國士

     アカデミイなき悲哀

 現代日本の各種文化部門を通じて、最も混沌たる状態を示してゐるのは、人々によつて多少見るところも違ふであらうが、恐らく、明治維新の一転機にも拘らず、かの封建的伝統を最も執拗に、かつ濃厚に継承し来たつて、これに代るべき新時代の要求を未だ明確に反映し得ない、ある若干の部門に限られてゐるやうである。
 これは、要するに、理論と実践の二途について――例へば政治の如き――一様の批判は加へられぬものもあるに相違ないが、少くとも精神文化の方面に於て近代国家の面目としても、甚だ外聞を憚るやうな社会的現象が、何等指導階級の注意をすら惹かずに存在し続けてゐることを、識者は既に幾度も叫んでゐるのである。
 私は固よりさういふ立場から、権威ある言説をなす資格などありやうはないのであるが、需められるままに、自分の専門たる演劇の領域に於いて、現在、わが国の劇場文化が、如何に低劣卑俗を極め、これに反撥する運動の精神が、遂に今日まで有力な民衆の支持を受け得ないでゐる事実について語らうと思ふのである。
 要するにかういふ結果は、単純な原因に基くものではないことは知れてゐるが、主として日本演劇の伝統が、恐らく最も「舶来的」感化を受けるのに困難な条件を具備してゐるためであり、同時にこれに対して新国家建設の衝に当つた当時の「役人」が、偶々西洋音楽のアカデミイ制度を移入するに際し、どうしたわけか、これに附属する「演劇教育」に関する部分を除外したことに重大な手落があつたのではないかと思ふ。
 勿論、アカデミイはアカデミイだけの役割を果せばよいのである。言ひ換へれば、国家の文化的基礎を築き、その水準を常にある程度まで高めて行くといふ機能は、アカデミズム本来の使命である。あらゆる文化の先駆的傾向は、その水準の上にはじめて活溌な動きを見せるものであることは、例を何れの部門に取つても云へることである。
 現代の日本演劇が、歌舞伎とその伝統の派生たる新派劇を主流とし、劇場文化の全面的水準をここにおかねばならぬ状態は、西洋演劇の技術的伝統が、アカデミックな階梯を経てわが国の劇壇に摂取されなかつたことに基因し、従つて、演劇人たるの夢想は、遂に、文明開化期の青年的野心と相容れざるものがあり、劇場は、果して商業主義の一途を撰ぶ外なかつたのではないか。
 演劇改良会のメンバアは、有為な頭脳にも拘らず、近代演劇の芸術的進化について盲目であり、俳優の教養については更に考慮を払つた形跡がない。
 坪内逍遥は、演劇に関する限り一個の傑れたアマチュアであつて、一世を指導する創造的着眼を欠いてゐた。かくて、島村抱月も小山内薫も、終生アカデミイなきアンデパンダン的存在として、空虚な努力を「新劇」開拓の上に捧げたのであつた。
 一方、近代企業の列に伍した劇場経営は、国家の無関心に乗じ、民衆の無批判を利用して、多少の犠牲を伴ふ文化的役割を完全に放擲した。合法的に卑俗化するといふ顕著な現象を、最早、何人も制止し得ない「制度」を確立してしまつたのである。
 かかる弊害を予防するためにも西洋の諸国家は、夙に、演劇のアカデミイを設けてゐるのであつて、その内容は、教育機関と、劇場管理の二方面において、国家が財政的負担をなし、民間の専門家をしてその運用に当らしめ、以て「定評ある芸術家」の保護と、教養を求める階級の希望に具へ、更に、油断のならぬ営利劇場への牽制をこれ努めてゐるのである。
 国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワアル)と国立劇場(コメディイ・フランセエズ、オデオン・オペラ、オペラ・コミイク、トロカデロの五座)は私の滞仏中の観察に拠ると、当時の情勢で、十分にその文化的意義を発揮しつつあるやうに思はれた。
 巴里の劇場は、その数、百に余るといはれるが、そのうち、勿論芸術的価値の全然認められない興行も混つてゐて、これが吸収する観客の層も甚だ広いには違ひないが、少くとも、国立劇場を除く所領ブウルヴァアル劇場中、その主流を占める大劇場の経営者は、何れも、絶えず算盤ははなさないにしても、一様に相当の「芸術愛好者」であり、多少とも「文化的教養」の所有者たることを疑ひ得なかつた。
 これは、ある場合、さうであることが却つて算盤に合ふのかもしれないし、また、少々穿ちすぎるやうだが、さうでなければ世間で――即ち彼等の出入する社交界で、大きな顔ができないからであるとも考へられる。名誉心といふか、矜恃といふか、または単なる見栄といふか、そのへんの微妙な心理が、この重大な現象を支配してゐるといへないこともあるまい。
 これがつまり、実際的に見て、一国の文化水準如何によつて定まる問題なのである。そして、時代の演劇をしてある水準を保たしめる原動力は、国家の積極的インテレストが加
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