ふらんす役者気質
岸田國士

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     役者の妻

 或劇場の初日である。
 舞台の上では、今、美しいコロンビイヌがピエロの腕に狂ほしく身を投げかけたところである。
 その時、見物席の一隅に、どよめきが起つた。気絶した一婦人が救護所に運ばれた。誰かゞ、マダムBと叫んだ。ピエロの役に扮してゐる俳優の細君であることがすぐわかつた。
 B夫人が息を吹き返した時には、ピエロの姿をした夫のB君が、寝台の傍に跪いて、不安な眼を彼女の口元に注いでゐた。
『アルフォンス……』彼女は、微かに呼んだ。『後生だから、あの場面は削らして頂戴。コロンビイヌが、あんなにして、あんたの腕に……。いゝえ、あの女に、そんな権利はない。あたしが、死んでもいゝこと? 削ることができなけれや、あんたの役は独り者に譲つておしまひなさい』

 B君は、細君の頭が果してはつきりしてゐるかどうかを疑ひながらも、兎に角、舞台監督と作者をその部屋に訪れた。そして、あの場面を、あゝいふ風に演じることが、妻の健康を害する恐れのあることを申し立て、何とかならないものかといふ相談を持ちかけた。
 作者は、脚本の一部でも変へることは罷り成らぬと息捲いた。
 舞台監督は、理由が理由に成らぬとて、B君の相談に応じない。
 そこに居合はせた劇場主は、世間馴れた口調で、かう附け加へた。
『俳優の細君になつた以上は、殊に、あんたのやうな役を演じる俳優の細君になつた以上はあゝいふ場面を見ても、平気でゐる覚悟が必要ですな。さもなければ、第一、その芝居を見に来ないがいゝですな』と。

 事件は未解決のまゝ、次の日になつた。その日のピエロはコロンビイヌを軽く抱き止めて面はゆげに見物席を隅から隅まで見まわした。

 舞台の濡れ場が、夫婦喧嘩の動機になつた例は、珍しくない。
『あんたは、丸で、ほんとにあの女を愛してるやうよ。あんな調子で、あたしに物を云つたことが、一体何時あつて……』
『それや、あの役がさうなんだもの。脚本にさうあるんだもの』
『うそおつしやい。あゝ云ふ文句は、さうかも知れないけれど、あの調子が、脚本のどこにあります』
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