心な見物が、劇場の外側に一町も列を作つてゐるやうなことが珍しくありません。そこへまた、「えゝ、プログラムは如何……」「えゝ、ビールは如何」「えゝ、切符は如何」といふやうな呼声が聞えて来ます。これもまた日本では見られない光景です。
しかし、一方に、日本で云へば築地小劇場とか、または新劇協会のやうな、所謂、芸術的劇場が、限られた見物の前で、華やかではありませんが、研究的な舞台を絶えず見せてゐます。そのうちの、ヴィユウ・コロンビエ座といふので上演した脚本を、嘗て築地小劇場でもやり、また近く新劇協会がやることになつてゐるのですから、かういふ種類の芝居は、仏蘭西も日本も、同じ道を歩いてゐると云へるでせう。
独逸《ドイツ》の芝居は舞台の趣向に於てすぐれ、仏蘭西の芝居は、役者の演技に於て勝つてゐることは誰でも気のつくことですが、そのために、独逸の芝居は、言葉がわからなくても「面白く」、仏蘭西の芝居は、言葉がわからなければ、あんまり「面白くない」わけです。さういふところから、仏蘭西の芝居は、日本などで、あまりその道の人からよく云はれてゐませんが、これはみなさんに一つ考へていたゞきたいことです。
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