するがよろしい。「映画は演劇よりも演劇的なり」といふ逆説が、現代日本では立派に適用するのである。映画を映画として観賞するなんていふ余裕は、今のわれわれにはない――ともいへるであらう。
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     極言すれば

 僕は、原則として、演劇は「俳優」を本体とするものであると思ふ。俳優なくして何の演劇ぞやといひたいのである。今日は、その俳優を作るために、ただ一人の才能あり、高い精神を有する俳優を生み出すために、われわれは全力をあげねばならぬ時代である。われわれの努力は、しかも、直接の力とはならぬ。一人の無名の青年か、又は女性が、たまたまその才能と精神とを以て、われわれの前に現はれるといふ機会が、その努力に酬ゆるか否か、希望はただそれだけだ。
 或は既に、今日までの「新劇」が、かくの如き幾人かの男女を引入れたかもしれぬ。が、今日までの新劇の舞台とこの雰囲気は、彼等の才能を蝕み、彼等の精神を鈍らせてしまつたのであらうか。
 若しも十年前に、一つのよき雰囲気が存在したならば、彼等は現在、毎日千人の見物を、一月間呼び得たであらうと思はれるやうな男女優を、少くとも三四人僕は識つてゐる。
 しかも、彼等が、かくあるべきやうな彼等であつたなら、現在、日本にも、一人のヴィルドラック、一人のモルナアル、一人のオニイルぐらゐは出てゐた筈である。いや、一人のチェエホフさへ出てゐたかもしれぬ。
 古今東西の演劇史を詳細に調べてみればわかる。演劇の隆盛は名優の輩出に負ひ、名優は才能ある作家を発見してこれに傑作を生ましめてゐるのである。名優と天才作家――このコンビネエションがさほど明かでない場合でも、一時代或は一国の演劇文化は主として俳優を通じて、名作戯曲の出現に何等かの寄与をなしてゐる。
 現在の日本は、戯曲家が腕をふるふ前に、演出家が舞台にのさばる前に、先づ、俳優らしい俳優が一人、起ち上らねばならぬ。
 一人のハアバアト・マアシャル、一人のクロオデット・コルベエルで沢山だ。
 俳優型美貌は役に立たぬ。若干の「人間的魅力」と、一と通りの近代的教養と、常人以上の感受性と、俳優たる十分の矜恃を必要とする。そして、何よりも、「現在の新劇」は概して観てゐられないといふ神経――そして、その焦立たしさを、朗らかに表現するほどの機智を要求したい。

     とは云へ、公平にみて

 現
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