術の拘束を脱したといつてよい。
 いふまでもなく、場所と時間とを限られることが戯曲創作上、最も大なる苦痛である。戯曲の人物が、往々にして「不必要」な口を利き、「不必要」な動作をすることによつて、作品の「生命感」を稀薄にし、芸術的効果を減殺することがあるのは、ややもすれば「不必要」に幕を開けて置かなければならないからである。時と場所と、人物との間に空隙が生ずるからである。必要な時に、必要な場所に、必要な人物のみを現はし、その人物が必要なことのみを云ひ、行ふことによつて、如何に戯曲の生命が溌剌さを加へることであらう。
「これからの戯曲」が、必ずしも場数の多いものになるとは限らないが、無理に場数を少くする不自由さから、漸次解放されることはたしかである。将来、舞台装置の機械的進歩と共に、それこそ、映画に近い場面転換が行はれるかもしれない。さういふ舞台を予想した戯曲を、私もそろそろ書かうと思つてゐる。
 場数の多い戯曲が生れる理由はその他にもある。勿論第一の理由と関連はしてゐるが、これは戯曲そのものの文学的進化に直接結びついてゐる理由である。即ち、感情の昂揚、論理の破壊、ファンテジイの強調、視角の変化、感覚の遊離、潜在意識の探求、これら新文学の特色は、戯曲の構成に、より端的な、より飛躍的な手法を選ばせた。連続する事件の常識的観察を排して、極めて短時間に圧搾された生命の現象的効果を、断片として、次ぎ次ぎに捉へて行くことが小説に於てさへ、一つの新味ある表現上の発見となりつつあることを見ればわかる。
 小説に於ける「一行アキ」の効果は、やがて戯曲に於ける場面転換の効果である。

「これからの戯曲」といふ問題について、まだ論ずべきことも多々あるが、要するに、以上は、その一端にすぎない。初めにも述べたやうに、日本の現代劇は、まだその基礎が出来上つてゐない。基礎とは、西洋劇が今日まで築き上げた「写実」の境地に外ならない。わが劇壇から将来、『烏の群』や『死の舞踏』や、『叔父ワーニヤ』が生れるとしても、それは決して、「これまでの戯曲」と呼ぶことはできないやうな気がする。(一九二九・六)



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007
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