味で、戯曲が次第に小説的になるといふ見方は当たらない。小説的になるといふよりも、寧ろ詩的になるのである。
公衆は、舞台に「物語」を要求する愚さを覚るであらう。「どうなるか」といふ興味につながれて幕の上るのを待たなくなるであらう。人物の一言一語、一挙一動が醸しだすイマアジュの重畳は恰も音楽の各ノオトが作り出す諧調に似た効果を生じることに気づくであらう。俳優の科白は、単に「筋」を伝へるものではなく、常に、ある「演劇的モメント」を蔵してゐることがわかるであらう。
戯曲家は、そこで初めて、真の芸術家となり得るのである。
一、活動写真の進歩は、演劇の領土を狭くしたことは事実である。演劇の眼にのみ訴へる部分は悉く活動写真といふ自由な表現形式に圧倒された観がある。この結果は、演劇に於ける「台詞」の位置を確立せしめた。演劇は、一層戯曲の言葉に頼らなければならなくなつた。この意味で「これからの戯曲」は、いはゆる「観るための演劇」より「聴くための演劇」に、より以上本質的価値を発揮しなければならないであらう。戯曲家は、ゆゑに、何よりも詩人たることを必要とする。
一、従来の戯曲作法は、成るべく場数を少くすることを教へた。
「これは五幕だが、三幕にまとめられるものだ」とか、「これを一幕に仕上げられないやうでは駄目だ」とかいふ批評さへ通用した。三幕八場、乃至五幕十二場といふやうなものもありはしたが、それらは、少くとも作劇術の標本にはなり得ない性質のものであつた。古くはシェイクスピイヤ、ミュッセ、さてはイプセンにさへ、場数の多いものはあるが、それらの戯曲は例外の如く取扱はれて来た。然るに、近頃、先駆的色彩を有する劇などに於て、屡々十場、二十場といふ戯曲が現はれ出した。これから益々この傾向が著しくなるであらう。これには色々理由もあるであらうが、ある人々の如くこれをもつて単に活動写真の影響なりとするのは些か早計である。
成るほど、映画的手法を漫然と取入れてゐる作家もあるにはあるだらうが、それよりもつと重大な原因がある。
第一に舞台装飾の最近傾向が、実写的克明さと浪漫的華美とをしりぞけて、専ら観念的、象徴的、暗示的単純さを強調するところから、場面転換に経費と時間とを要しなくなつた結果、劇作家は、従来の如く、場数の制限を受けることが少くなつたのである。
実際、劇作家は、ここで初めて旧い作劇
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