『私の生活技術』の跋
岸田國士
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現代の日本人は正しい「生活観」をもつてゐないといふことが、いろいろの場合に証明できるのであるが、それと同時に、広い意味における「生活の技術」を何時の間にか失つて、非常にギゴチない、国民としてはある意味で可なり損な「生活のし方」をしてゐる事実を誰も否定できないと思ふ。多くの人はその原因がどこにあるかも気がつかずに、たゞ、世間とはかういふものだとして、めいめい別に新しい「生き方」を考へようとしないのである。
私は、かういふ時代に、欧米人の「生活」そのものを謳歌する気にはなれないが、彼等は彼等なりに、はつきりした生活観と、自然に磨かれた一種の生活技術とを身につけ、それによつて、仕事の能率をあげ、健康を保ち、社交を楽しみ、かつ、民族的優越感を満足させてゐる点に思ひいたれば、われわれ日本人が何故に、今日、「生活」といふ問題を更めて検討してみなければならぬ羽目に陥つたかはおのづからわかる筈である。
われわれの祖先は、それぞれの時代を通じて、日本人としての立派な生活精神を基礎とする円熟した生活技術をもつてゐたのである。
時局下における国民生活の樹て直しが、わが伝統の再認識と新しい世界観の把握とを基礎としなければならぬことは勿論であるが、これを具体的に押し進めて行く目標は、是非とも、日本人の生活力の強化におくべきであつて、精神的にも物質的にも、その実践は、高度の技術を発見し、獲得し、これを習性とすることを不可欠の要件とするのである。それはさうと、われわれは、まだ、「生活」の内容についての研究も足りないし、「生活」といふ問題の取扱ひ方にも十分慣れてゐるとは云へない。少くとも、「生活」なる言葉の使ひ方さへ、日本人同士の間で往々喰ひ違ふやうな実情である。
今度内藤濯さんの訳された、モオロアの『私の生活の技術』は、さういふわれわれにとつて、非常に面白い参考になるといふわけは、人間研究において、独特な域に達してゐるフランス文学者の、いくぶん巧緻にすぎるきらひはあるが、なかなか鋭い「生活」なるものの見方が、今日お互の気づかない点を指摘してゐはしないかと思はれるからである。
「考へる技術」とか、「愛する技術」とか、「年を
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