ならない方にも七分通りはおわかりになるだらうと思ひます。それは、わたくし共は常々露西亜語以外に、万国共通の言語によつて劇を演じることを心掛けてゐるからであります」と云つた。
○少し言ひ過ぎはしないかと、僕は思つた。今でもさう思つてゐる。
○が、『桜の園』は――準備を勘定に入れて――七分通りまでわかつたと断言し得る。なぜなら「見た芝居」が「読んだ芝居」のイメージをぶち毀さないことは甚だ稀れである。
○それどころか、僕は、驚嘆すべきラアネフスカヤを見た。その裾さばきに、そのハンケチのひろげ方に、その珈琲の飲み方に、殊にその耳の傾け方と、肩の捻ぢ向け方に、彼女の一切を語らせてゐるところのラアネフスカヤを見た。――クニッペル・チェーホヴァ夫人の涙はそのまゝ凋落と離別の詩だ。
○ガアエフは感傷的な男に違ひない。然し、そのセンチメンタリズムは決して外にまで燃え上らないセンチメンタリズムである。その感激は、必ずしも空虚ではないが、屡々機械的である。じめじめはしてゐない。朗らかである。然し、玩具の笛の如く調子外れである。調子外れであるが、わざとらしくない。寧ろ頗る自然である。スタニスラフスキイ
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