らう。
 大木君の戯曲は、一と通り「もの」になつてはゐるが、決して同君の才能をすら出しきつた作品とは云へない。妙に飛躍のないことも不満である。たゞ、生活を観る相当肥えた眼が、必要以上に衒気を封じたのだと云へば云へるし、更に、熱情を湧き上らせるものさへあれば、こゝから新しい領域を開拓して行つて、決して間違ひはないと思ふ。
 八谷君の論文は、研究として私は面白いと思つた。批判の鋭さよりも、対象を捉へる意欲の逞しさを認める。整理されないもの、周到さに欠けるものはあるが、泡鳴の現代的解釈として興味ある問題を抽き出したことは、方法の如何に拘はらず、同君の文学的精進を語るものだと思ふ。
 さて、かう述べて来て、まだ何か不安なものが残る。私の受持つてゐる指導講座なるものが、その名に値しない貧しいものであつたといふやうなところから来る感慨かも知れない。しかし、幸にして、それは一週僅か二時間である。八谷、大木両君はもとより、私の組にゐた今度の卒業生諸君が、三年間に学び得るところがあつたとすれば、それは、「一週二時間」の如何に拘はらなかつたこと勿論である。これは是非この機会に云ひ添へておきたい。




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