「矜り」と「嗜み」
岸田國士

 問題はいはゆる国民錬成の効果についてといふのであるが、私はこの錬成といふ意味を、特定の団体なり機関なりが、その企画として一定数の人員を集め、ある方式によつて一定期間錬成を施すといふ、そのことだけに限らず、時局そのものの必然的な圧力が、むしろ一種の指導的、推進的な作用となつて、国民全体の自覚と発奮を促し、そこに期せずして「錬成」の実を挙げてゐるといふ、そのことをも含めて考へてみたいのである。
 錬成には、もとより精神的な面と、肉体的な面とがあり、この両者は、日本的な「行」といふやうな型で統一されねばならぬことは、すでに早くから気づかれてゐるが、一般に、その趣旨が、どの程度まで徹底してゐるか多少疑問である。
 つまり、指導者と錬成を受けるものとの間に、果して共通の希望と確信とができてゐるかどうかといふことである。私の知つてゐる範囲では、どこでも、それが多少有耶無耶に終り、たゞ、なにか効果がありさうだといふぐらゐのところで、双方満足してゐるやうなのが多い。
 それは錬成そのものの「方法」にあまり気をとられすぎて、なんのために、如何なる理想を目指して、それが行
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング