「悲劇喜劇」の編輯者として
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)詩学《アアルポエチツク》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\の
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今日までかういふ種類の雑誌があつたかどうか、いはゆる「公器」としては、あまりに個人本位であり、いはゆる「同人雑誌」としては、あまりに門戸開放に過ぎると思はれる、一雑誌の存在は、当今、少しく時代錯誤の観がないでもないが、流行は必ずしも一世の識者を悉く眩惑し去るものではないと思ふから、私は、好んで自分の立場を守ることにした。
敢て野心的な言葉を弄するなら、私は、この雑誌によつて、日本の新劇運動に一つの新しい方向を与へようと思つてゐる。
× × ×
シエイクスピイヤの「翻案」とイプセンの「紹介」より出発した日本の新劇史は、少くとも結論に到達してゐる。
クレイグ、ラインハルトを経て意識構成派にミザンセエヌ(舞台構成)の理論は、徒らに写真師をしてマグネシウムをたかしめたに過ぎない。
その証拠に、われ/\の周囲は、われ/\の友人は、遂に劇場に足を向けることを断念してゐる。
かれ等はしかも活動写真だけ観る連中である。音楽会へなら行く連中である。勿論普通以上の読書家である。殊に戯曲全集は幾通りも取つてゐる連中である。
なぜ芝居を観に行かないか。答へは同じである。曰く「退屈だ」。曰く「観てゐて気の毒になる」。曰く「おれに演らせればもつとうまくやる」。
なるほど、さうかも知れない。私は、かれ等が呑気さうにわれ/\の仕事をこき卸すのを見て、少しは腹を立てるかといふと、決してさうではなく、却つてうれしくなるのである。なぜなら、かういふ人々こそ、頼母しいわれ/\の味方であるから。
私は先づ「悲劇喜劇」をかういふ人々に贈らうと思ふ。
× × ×
一方かういふ人達がゐる。芝居でさへあれば、なんでもかまはない。それや、感心したり感心しなかつたりするにはするが、兎に角、芝居を観ないと淋しい。取りわけ新劇の舞台は、多少不満はあつても、常に何か知ら生き生きした興味を与へてくれる。ことに脚本を読んだだけでは味はへない魅力が、思ひがけない興奮となつてわれもまた何事かをなさゞるべからずといふ決
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