そこから発見し得るものは、自分の「抽斗にない言葉」であり、かくの如き言葉の発見こそ、舞台に新しい生彩を与へるものである。
俳優にとつて、最も不幸なことは、自分の抽斗を豊富にしようと心がけないことである。但し、これは、他の芸術家一般に当てはまることであるが、この怠慢は、当然、ある台詞にぶつかつた場合、自分の「抽斗にある言葉」だけで間に合はせようとし、概ね、似て非なる結果が生ずるのである。
先日、帝劇の夜の部の舞台を通じて、柳永二郎と大矢市次郎とが、それぞれ、一句づつ、名「せりふ」を聴かしてくれた。
柳――「挑みやせん」(昨今横浜異聞)
大矢――「うむ、さうか……」(第七天国第一幕)
なるほど、何れも「新派の抽斗」にあるものには相違ないが、これほど適切に用ゐられるなら、これは、立派な現代劇の「せりふ」である。
序だから云ふが、水谷八重子は、新劇と新派劇の二た道から、巧みに「せりふ」のこつを会得し、今や、その領域に於て、当代随一の「せりふ」俳優たる資格を備へて来た。なほ一歩進んで、純粋の心理劇をこなし得るためには、泰西の名優に学ぶ機会があつたらこれ以上のことはないと思ふ。殊に、教養ある相当年配の婦人に扮する場合、今のまま進んだのでは、大に物足りないところがある。之に反して、スクリィンの名優、早川雪洲は、「せりふ」の点にかけては、さすがに難色が見える。工夫に余つて、当てずつぽうな調子さへ処々出て来る。勿論自分でも気がついてゐるに違ひない。あの堂々たる美声をもつてすれば、普通に話をするだけで、普通以上魅力ある「せりふ」となるだらう。
ここで云ひ落してはならないのは、井上正夫の、底力があり、同時に、陰翳の細かな「せりふ」である。定評もあることながら、一二の模倣者がその「癖」だけを真似て安心してゐるのはやや可笑しい。
最後に、憚りなく云へば、日本の俳優が、もう少し「せりふ」を大切にし、見物が、もう少し「語られる言葉の美」に敏感であれば、今日の現代劇も、多少は見られるものになるだらう。(一九三一・一)
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
1931(昭和6)年1月17日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年
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