「抽斗にない言葉」
岸田國士
古典劇の伝統と、新派浪漫劇の様式は、それ自身、ある「せりふ」廻しなるものを形づくつたが、それらの俳優は、また、それぞれ、修業の過程と工夫の範囲に於いて、各自独特の「声色」を生むに至つた。
更にまた、文芸協会以来の翻訳的「せりふ」型は、多少の推移はあつたにせよ、大体、芸術座調と築地調とに区別される現代劇のディクシヨンを決定し、これまた、その畑に育つた俳優の個人的鍛錬によつて、ある程度の多様性を示しつつある。
ある様式の演劇が、ある「せりふ」の型を破り得ないことは、何れの国の古典劇を見てもわかることであつて、たまたま、その型を破らうとした舞台革命家の試みが、ある程度まで達成し得た例を、私はジャック・コポオに於いてのみ見たのであるが、日本の古典劇に於いて、その希望はやや困難なやうである。
ただ、ここで問題にしなければならぬのは、何れの畑に属する俳優にもせよ、ひとたび現代劇を演ずる場合に、ある種のマンネリズムに陥つた「せりふ」廻しを固執し、舞台の生命を希薄にすることが、今日、さほど注意されてゐないことである。
この「せりふ」に於けるマンネリズムは、戯曲そのもののなかに於いても、屡々指摘し得るのであるが、俳優は、どんな「せりふ」にでも、その肉声化によつて、一脈の清新な生命感を吹き込み得なくてはならぬ。
リュシヤン・ギトリイといふ俳優は、一語一語を発する毎に、見物をして異常な身顫ひを感ぜしめたが、それは決して、所謂「感動に満ちた言葉」を、力いつぱいに叫んでゐるのではない。レジャンヌ夫人も亦、月並な会話の受け応へで、ただそれだけで観客を恍惚とさせる秘訣を心得てゐた。露西亜人のピトエフ夫人は、仏蘭西語で芝居をするのだが、発音やアクセントには、幾分怪しげなところがあるに拘はらず、言葉の心理的ニュアンスを捉へる点になると、正に名優の本領を発揮したものである。
日本の現代語は非常に乱れてをり、標準とすべき「話される言葉」が、殆どないと云つていいのであるが、それだけまた、俳優としての想像力が生かされて来るわけである。
現代の俳優は、刻々変遷する日常の口語体に、絶えず注意を払ふのみならず、漢文脈より欧文脈に推移する文学的表現に親しみ、あらゆる職業、教養、年配、性格を通して各種の人物に接触し、その「話し方」を微細にノオトする必要があるのである。
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