「詩歌の午後」について
岸田國士

 私が詩歌の朗読について考へはじめたのは、ずゐぶん久しい前からである。
 日本人は詩歌を愛する国民として、他の如何なる国民にも劣らないのに、その詩歌の精神が、近頃どういふものか、われわれの日常生活から、われわれの協同の仕事から、そしてわれわれの公の行動から、消え失せようとしてゐる。万葉の昔から詩歌こそ、日本人の心と心とをつなぎ、情熱をあふり、勇気をかりたて、現実に夢を、声なきものにいのちを、与へて来たのである。
 事変以来、戦線に銃後に、歌よむ人の数は目立つてふえてゐるし、なかには秀作も少くないけれども、それさへまだ、国民全体に十分親しまれてゐない。歌は歌よむ人のために作られ、印刷せられ、発表されてゐるに過ぎぬからである。
 明治以来の詩についてもおなじことが云へる。新体詩と云へば西欧の詩の系統を引いたもののやうに思はれてゐるが、実はそれは時代の風潮がさう思はせただけで、多くの名作と称せられるものはひとしく日本人の心がうたはれてゐないものはなく、今なほ、われわれの魂を強く打つ力をもつてゐるのに、それらは一部人士の趣味を満たすにすぎない有様である。
 
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