歴史的に、心掛けて来た、また心掛けつゝあるところのやうです。「古きラテン文化」――それはフランス文化人、及びフランス女が最上の誇りとする、それは、こんな日常の用意から来てゐると言つてよいかと思ふ。
 日本の女の人でも花柳界などには、よほどこの声の練習があり、たしなみがあるらしいが、動機も目的も全く違ふ。普通の社会だと、日本語を綺麗にしかも明瞭、的確に話さうとする人があるかないか? 言葉を愛し、言葉を惜しみつゝ、対者によき感じ(殆ど芸術的な感じ)を与へ、また十分の理解を得させようとして、言葉の発音や調子や組立てにまで始終気をつけてゐる日本の女は、割合にすくないのではあるまいか? 紅や白粉で面上を糊塗する事は知つてゐても、腹の底から、魂の奥から発して来る言葉を磨く事を忘れては駄目だ。日本語がいつでも乱雑に流れ、標準を失ひつゝあるのは、国語の整理と統一とに始終周到の注意を払つてゐるフランス学士院のやうなものが日本にないからではなく、国民一般が、殊にいろんな関係から、言葉を重んじなければならない日本の女達が、それをあまりに出鱈目に、無自覚的に、話すといふよりは寧ろ発散しつゝあるからだらう。これ
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