」に求むべきことはむろんであるが、われわれ日本人は、前に述べた如く「語り手」として、多くはその点、甚だ幼稚である以上に、「聴き手」として、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分に関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるといふ訓練に至つては、最も欠けてゐると云はねばならぬ。この事実こそ、わが国の現代劇を不振ならしめてゐる最大の原因なのである――作者の側からも、俳優の側からも、将たまた、観客の側からも。
試みにさつきの例を挙げて見よう。こゝに一人の若い母親がゐる。子供に乳をふくませながら、かう云つてゐる。――
「さ、早く、おつぱいを飲んで、ねんねして頂戴。そいでないと、母ちやんは、……どうするか知つてて……?」
さて、こんなつまらない独白めいた言葉から、実際、われわれが、何か魅力らしいものを感じたとしたら、どうだらう。その母親が美しい女性だからだと云ふものがあれば、私は、そればかりではないと答へる。若い母親としての優しさが、言葉の調子に表はれてゐるからだと云ふものがあれば、私はそれだけでもないと答へる。それなら、その言葉つきが極めて自然で、厭味がない
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