しろ、当然だと云はなければならぬ。
二 話術以上の話術
話術といふものがある。雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものと云へよう。何れにしても、所謂「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬ所に、意識的な努力と効果とを計算に入れてゐる。
この話術なるものが、「語られる言葉」の美をどれほど豊富にしてゐるか、それを今こゝで問題にする前に、ひと通り、断つておきたいことがある。それは、この種の「技術」は、単に技術としては、極めて微々たる役割をしか、われわれの生活の中に於いて演じてゐないといふことである。殊に、この技術を以て職業とするものの中には、その技術以外のものによつて、われわれを顰蹙せしめる手合があまりにも多いといふことである。
もちろん、古今の文学的作品中、その芸術的価値の一半を、この話術に負うてゐるものもあるし、教養ある人々の高い趣味に裏づけられた話術の妙は、屡々われわれを恍惚境に導くには相違ないが、これらは、何れも、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能の、ひそかに許された特権であつて、かの「話上手」を鼻にかけて、得々と駄弁を弄する市井の善男善女は、正にこの「技術」の憫むべき犠牲である。
話術とは読んで字の如く、「話をする術」である、聴手を感動させ、興がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでゐるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たず、また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しないのである。
殊に、話術の「鍵」ともいふべき「聴手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴手が多い時、少い時、殊に一人きりの時、その聴手の種類、その状態、聴手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。
しかしながら、前にも述べた如く、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つやうな時、その効果の大部を失ふものであることを知らねばならぬ。
甲の場合に成功した話術も、乙の場合には成功するとは限らない。これは、既に、話術の話術としての遊離を示すもので、さういふ話術は、「職業的話術家」に委せておけばよい。
われわれの日常
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