のの領域に足を踏み込んでゐるものもある。

 所謂「美声」は、云ふまでもなく、「語られる言葉」の魅力を増すことに役立つのであるが、前に述べたやうに、所謂美声なるものには、常に何等かの条件がついてゐる。それは、丁度服装のやうなものである。ある種の「美声」は、甲の人物によつては極度にその真価を発揮するが、乙の人物によつては、却つて不似合な声として顧みられないことすらあるのである。
 これに反し、所謂「よくない声」でも、ある人物の口から漏れる場合には、それが「よくない声」であることを忘れさせるのみか、時とすると、さういふ声なればこそ、その言葉が一層、言葉としての魅力をもつといふやうな場合があるのである。
 しかし、さういふ例は極めて稀であつて、その人物の人柄に似つかはしい「美声」は、その人物によつて「語られる言葉」を一層生彩あらしめるものである。
 所謂「美声」なるものの、どつちかと云へば感覚的魅力を主とするのに対して、専ら精神的魅力を生命とする一種の声が存在することを注意しよう。それは前に述べた例の「精神」乃至「生活」で鍛へた声である。この種の声は、必ずしも「美声」と呼ばるべきものではないが、「語られる言葉」を、最も高き意味に於いて、魅力づけるものであることを忘れてはならぬ。
 日本人の生理的弱点は、到底欧米人と所謂「美声」といふ点での感覚的魅力を争ふことはできないかもしれぬ。しかしながら、われにまた残された一つの領域がある。
 舞台の俳優について云へば、「美声」は美貌と同様、最も貴重な「道具」であるが、それと同時に最も危険な武器である。なんとなれば、ブレモン教授の説を俟つまでもなく、彼等はその「美声」を恃んで、その声に総てを委ねる弊に陥るからである。つまり、「芸」に求むべきものを、「声」に求める過ちを犯すからである。
 劇場に於いてもまた、「美声」は必ずしも「立派な声」ではない。

     五 訛り方

 日本語の発音は、そんなにむづかしくない。非常に合理的なだけに単純を極めたもので、「文字」を離れた発音だけなら、外国人でも一日で練習ができるだらう。そこへ行くと、外国語の中には、なかなか、面倒な発音があり、十年かかつても容易に卒業のできない発音がある。仏蘭西語で云へば in, un, eu, r, の如きは、外国人で完全に発音し得るものは稀であらう。
 ところが、そ
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