、荒れてゐることがあつても、澱みはない。生活にひしがれた声は底力がなく澱んでゐる。
人間の声は、また、その個々の性情、稟質を表はしてゐる。銅羅声は鈍重で粗野、猫撫声は陰険で多情、金切声は気まぐれで打算的、裏声は非常識で見栄坊……などと、少々独断にすぎるかもしれぬが、幾分思ひ当る節がないでもない。
鼻声といふのは、必ずしもその人物の性情を語るものでないが、多くは猫撫声に似て、あまり愉快なものではない。それも、時として、廃頽的な情景の中に点出されれば、一種の感覚的魅力を添へる場合があるにはある。さういふ意味なら、鼻声に限つたわけではないが……。従つて、その原因が、風邪を引いて鼻をつまらせてゐるのでも、一向差支はないのである。
黄色い声などと、声と色彩とを結びつけてゐるのは面白い。
声を腹から出すとか、頭のてつぺんから出すとかいふのも、それぞれ感じが出てゐて面白い。
高い声低い声は、理窟だが、太い声、細い声、丸い声、尖つた声、などといふのは感覚的だ。
音楽の方で、バス、バリトン、テノオル、アルト、ソプラノなどと云つてゐるが、普通の声を、この区別で呼ぶことが近頃日本でもはやつて来た。
「声」といふ言葉は、日本でも西洋でも、抽象的な意味をもち、「意志」とか「意見」とかを表はす場合がある。「神の声」とか、「民衆の声」とかはそれである。
声は、それ自身「精神」なり「生命」なりをもつと解釈できるかどうか。少くとも、「語られる言葉」のうちで、ただ単に機械的な役割を演じてゐるのでないことはたしかである。
同じ言葉が、澄んだ声で語られる時、弾力のある声で語られる時、錆びのある声、艶つぽい声、あどけない声で語られる時、さては、濁《だ》み声、破鐘のやうな声、かすれた声、頓狂な声、さういふ様々な声で語られる時、その印象は決して同一ではない。
優しい声、厳かな声、熱のない声、甘つたれた声、邪慳な声、などと云ふのは、それ自身、多少相対的な意味を含めた形容で、これは、声の調子と云ふ方が、より正確な場合もあらう。特殊な心理の動き、ある感情の閃きをうつすのは、多く声の出し方による、その抑揚強弱明暗の度に外ならぬ。
更にまた、感情の激発に伴ふ異常な声の調子を呼んで、怒声、笑声、歓声、うるみ声、おろおろ声、などと云ふが、このなかには、もう既に、声の領域から、広い意味に於ける言葉そのも
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