のである。
此の案を得る為めに、最も貴重な暗示を与へられたのは、堀口大学君訳、ジユウル・ロマンの「科学の奇蹟」である。
此の形式は、所謂「ストオリイ」と「セナリオ」との中間に位するものであると考へるが、われわれは、「ストオリイ」といふものが、映画芸術の「内容」として、如何に小さな役割をしか演じてゐないかを知つてゐると同時に、映画の一場面が、監督の技倆によつて活かされることを認めながら、なほ且つその場面々々の印象を物語全体の文学的意味から、成るべく明確に指示する必要を感じるのである。勿論、その指示は程度問題であり、詳しくすれば際限がないかもわからないが、要するに、映画脚本の作者は、自ら監督を兼ねない以上、「現はさうとするもの」が「如何に現はさるべきか」を何等かの方法で示さなければならない。監督は、此の種の映画脚本を基礎として、撮影台帳を作製すべきである。但し、監督にして作者を兼ねたものは、映画脚本を文学として発表しなくてもいゝのであるから、問題は別である。
これだけの考へを頭に置いて、僕は、文学としての――読み物としての――映画脚本を書いて見ようと試みた。映画専門家からは、そんな
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