「ゼンマイの戯れ」に就て
岸田國士

 映画脚本は純粋に文学の一様式たり得るかどうか。小説、詩、戯曲――更に、戯曲を舞台脚本と映画脚本とに区分するやうな時代が来るかどうか。かういふ問題を解決する為めに、僕が「ゼンマイの戯れ」を書いたとすれば、誠に烏滸がましい話であるが、実はそんな大それた野心はなかつたのである。
 僕がかういふものを書いた動機は、或る監督から某俳優を主演として映画を作りたいのだが、何か「ストオリイ」を考へて呉れないかといふ相談があり、さういふことに全く経験がないに拘はらず、近頃多少映画といふものに興味をもちかけて来た矢先でもあつたので、兎も角、映画になりさうな「物語」を、映画になりさうな形式に纏めて見ることにした。
 処が、所謂「セナリオ」といふ形式に対して、僕はあまりに映画的の知識が無さ過ぎることを自覚してゐるし、且つ、今日の一般読者に取つて、その形式は、なほ、あまりに「科学的」に過ぎることを感じてゐるしするので、結局、われわれ文学者が、映画脚本を書き、映画的効果を文学的に表現することが許されるとすれば、先づ、かういふ形式に依るより外あるまいと思はれる一つの案を立てた
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