の立場から論ずれば、徳川時代に最も獨創的見地から研究した大阪の學者では、麻田剛立を第一に推さねばならぬ。彼が豐後から大阪に出で、天文研究に盡瘁した成績は文書缺損して判然しない。しかしその惑星運行の觀測は遂にケプレル法則に到達した。ケプレルがチヨブラヘの結果を利用して、法則を編み出したとは、艱苦の點において大差がある。しかもその門弟高橋至時(純大阪市民)間重富が、寛政改暦を實行し、至時は遂に子午線弧の測定に※[#「執/れっか」、382−3]中するに至つた筋道を考ふれば、その核心は矢張り麻田の教訓に基づいたことを推斷せしむる。至時はその後方針を轉化して伊能忠敬の日本全國測量の參畫者となり、百餘年前にこの大事業を完成せしむるに至つた。その過程を吟味すれば、至時もまた非凡な天文學者であつたに違ひない。至時の子景保は父の事業を襲ぎ、天文學に精通してゐたが、また盛んに韃靼語を研究し、徳川時代の斯道の最高權威である。一世紀前に蒙古まで皇國の勢力範圍に入れんとした卓見家は、實に大阪に生れた快男兒である。しかしその名は大阪人に餘り傳へられてゐない。ほんまに燈臺下暗しでおまへんかといひ度い。
この外河村瑞賢の安治川の河身改修、安井道頓の運河開鑿等、工學上の業績も輕視してはならぬ。また緒方洪庵が教育家として辣腕を揮ひ、福澤諭吉、橋本佐内らを出したことは、周知のことである。要するに大阪市は學者の志望を達成せしむる、特殊の魅力に横溢してゐた。學者もまた經史の註釋に沒頭するやうな、腐れ儒者のなすことに甘んぜず、獨創的見地から活きた學問を啓發するに心血を注いでゐた。これ恐らく大阪の土地柄から來た反映であらう。
大阪が日本の金穴であることは明白であるが、その蓄積する基礎は、確固として動かすべからざるものか、多少の疑ひを存した。天王寺の多聞天が、福徳を全市に蒔き散らしてゐると信ずる人もあらうが、これは單に迷想に過ぎない。その安置された殿堂は、一度地震で倒壞したではないか。地盤が確かりしてゐなければ、どんな事業でもぐらつき出す。現代の如き、轉變極まりなき時世には、基礎から固めて進まねば駄目である。先年最高學府を市に設くるに當り、市民が一齊に共鳴して、商工業の基礎となるべき科學と、その應用である工學を隆盛ならしむる趣旨を表明されたのは、大阪市の將來に大なる確實性を與へた。在來の如き模倣的投機的精神にのみ力を注ぎ、市を安固ならしむる考へでは、時代後れの感があつたけれども、いまその憂は除かれた。ひたすら愛國、努力、更新等の見地から進めば、大阪は日本の智能金嚢である本性を、ます/\中外に發揮する運命を永く享有すると予は深く信ずる。天長地久、大阪市に幸あれかし。
[#地から2字上げ](昭和八年(1933)一月「大阪朝日新聞」所載)
底本:「隨筆」改造社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社
1933(昭和8)年1月3日
※冒頭に記載されていた「(昭和八年(1933)一月「大阪朝日新聞」所載)」は、ファイル末に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑わしい箇所の訂正に際しては、初出を参照しました。
入力:小林徹
校正:kamille
2006年9月18日作成
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