する。市の膨張は半世紀前に比ぶれば著るしいものである。一番眼を遮るものは、數ヶ月前までは數百の煙突からたなびく黒煙のウエーヴであつた。今は防煙裝置が多分に行はれて、煙はさほどまで視線を遮らなくなつた。山河の配置は依然として舊觀を保つてゐるけれども、人家櫛比、南は堺から、西は神戸に至るまで、一つながりに軒を並べ、どこが大阪との境であるやら、さつぱり見當がつかない。昔清盛が摩耶山麓の勝地を選擇し、都を福原に遷したころを考ふれば、安治川口の界隈は、歌に詠まれた難波江の葦の叢であつたらう。今は新淀川の堤防近く、僅かにその形骸を止むるに過ぎない。かくの如く諸市合體すれば、その間の交通もまた頻繁になるから、大阪附近の電車や、バス、汽車の網は日本一に發達し、その敏速に往來し、有無相通ずる設備は完全になつてゐる。その状況は天守閣上から斑を窺はれる。太閤の計畫した雄圖は、大規模に、間然なく實現するに至つた。
大阪見物といへば、心齋橋筋、堺筋、道頓堀、千日前、各種のデパートや、劇場であるけれども、市の大動脈である數多の運河を見なければ、市の眞髓に達したとはいはれない。試みにモートル・ボートで、毛馬の閘門から、安治川へ下り、天保山、築港をみて、木津川口から遡つて、土佐堀邊まで來ると、その概況を知ることは可能である。左右に大厦高樓を眺めてボートを走らすかと思へば、傍に白波を蹴立てゝ通るランチがある。また荷物を滿載して悠々と上下する團平船がある。あはや衝突せんとして、急に舵を操り直し、舷々相摩して過ぎ去る船もある。かく數多の船が輻輳する模樣は、恰も雜踏した群集の間を往來するが如く、安治川や木津川においては頗る混亂した行動をとらねばならない。しかして沿岸には倉庫が軒を並べ、市場、諸工場などあつて、まゝ原始的住家と思はるゝぼろ家もある。そこには洗濯した襤褸を、臆面なく風にぴらつかせてある。實際目前にちらつく千差萬別の景色は、應接に遑がない。その間にちよつと注目すべき所は、荷物の積み下しである。團平船の集團は、潮汐の工合で、互に接觸して毀損する虞があるから、自動車の古いタイヤを幾つとなく、舷側にぶら下げて、接觸を緩和してゐる。この廢物利用の思ひつきは、他所では見當らないが、大阪の船頭さんは、頓智をきかせてゐるところに、觀察の價値がある。築港には一萬噸餘りの船はまだ見えない。運河と港とは互ひに聯絡してゐるから荷物は直に荷船に下して、需要所で揚陸する便がある。かくして運賃は低廉になる點において、運河の妙を實現してゐる。從つて棧橋は乘客用に供せられて、荷物の揚陸に利用することは歐米大陸にある築港と違ふやうに一見した。かく無雜作に荷が動けば、神戸港も大阪で集散する物資には使用せられなくなるから、孤城落日の感あるかと推察せらるゝ。大阪の水利は考ふるより以上に經濟的價値を保有してゐる。
大阪市の計畫が着々圖に當り、商工業が近年著るしく發展したからには、何か太閤常勝軍の標幟となつた千生り瓢箪のモツトーがほしいものだと誰も考へる。しかし今日は刀槍で爭ふ時代を過ぎ去つて、平和の戰爭が不斷行はれてゐる。實際大阪で製造し、また輸出した商品は、東洋のマーケットに限らず、遠く南北アメリカまでも廣がり、歐洲は申すに及ばず、南洋、印度、ペルシア、支那、滿洲、シベリアまで普及し、地球全體を股にかけて蔓をのばし、豪勢なものである。このやうにして大阪商人の向ふところは商敵少き有樣になりつゝある。これが平和戰の千生り瓢箪に相當するものである。一瓢一を加へ百かつ千、千瓢向ふところ商敵なし、叱咤たちまち握る世界の權といひ度い。やがてミダスの神が觸るものはすべて黄金化したやうに、黄金入りの千生り瓢箪は、市の到るところにぶらさがつてゐる時代が來ることを豫測される。
然らば金倉を築くが大阪人の本能であるかといふに、決してさうではない。清代の碩學兪曲園は、日本人の作つた漢詩を評して、堺と池田に流寓してゐた廣瀬旭莊をもつて東國詩人の冠となした。その詩中に百濟の王仁の墓を詠じた一首がある。王仁は論語と千字文を傳へ、我邦に漢學の種を蒔いた先驅者である。その墓は北河内郡菅原村にあることをこの間突き止めた。その教へた所も餘り遠くはないから、大阪は漢學の發祥地である。維新前の學問は多く漢學に頼つたが、變則に反り點を付けて讀んでゐたから、漢學者の作つた詩文は、へんてこな文辭を綴つたものではあるまいか、こゝに漢學者の批評をすることは御免蒙る。徳川時代になつて、日本文學史に異彩を放つた近松門左衞門は大阪に住んでゐた。漢學の餘弊を離脱してその該博な知識をもつて、流暢明快に五花八陳の美文を劇壇に供へた。この日本のシェークスピアーは前に古人なく後に來者なき作者であつて、大阪の否、日本の誇りとすべき文壇の巨擘である。
科學者
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