してゐるから荷物は直に荷船に下して、需要所で揚陸する便がある。かくして運賃は低廉になる點において、運河の妙を實現してゐる。從つて棧橋は乘客用に供せられて、荷物の揚陸に利用することは歐米大陸にある築港と違ふやうに一見した。かく無雜作に荷が動けば、神戸港も大阪で集散する物資には使用せられなくなるから、孤城落日の感あるかと推察せらるゝ。大阪の水利は考ふるより以上に經濟的價値を保有してゐる。
 大阪市の計畫が着々圖に當り、商工業が近年著るしく發展したからには、何か太閤常勝軍の標幟となつた千生り瓢箪のモツトーがほしいものだと誰も考へる。しかし今日は刀槍で爭ふ時代を過ぎ去つて、平和の戰爭が不斷行はれてゐる。實際大阪で製造し、また輸出した商品は、東洋のマーケットに限らず、遠く南北アメリカまでも廣がり、歐洲は申すに及ばず、南洋、印度、ペルシア、支那、滿洲、シベリアまで普及し、地球全體を股にかけて蔓をのばし、豪勢なものである。このやうにして大阪商人の向ふところは商敵少き有樣になりつゝある。これが平和戰の千生り瓢箪に相當するものである。一瓢一を加へ百かつ千、千瓢向ふところ商敵なし、叱咤たちまち握る世界の權といひ度い。やがてミダスの神が觸るものはすべて黄金化したやうに、黄金入りの千生り瓢箪は、市の到るところにぶらさがつてゐる時代が來ることを豫測される。
 然らば金倉を築くが大阪人の本能であるかといふに、決してさうではない。清代の碩學兪曲園は、日本人の作つた漢詩を評して、堺と池田に流寓してゐた廣瀬旭莊をもつて東國詩人の冠となした。その詩中に百濟の王仁の墓を詠じた一首がある。王仁は論語と千字文を傳へ、我邦に漢學の種を蒔いた先驅者である。その墓は北河内郡菅原村にあることをこの間突き止めた。その教へた所も餘り遠くはないから、大阪は漢學の發祥地である。維新前の學問は多く漢學に頼つたが、變則に反り點を付けて讀んでゐたから、漢學者の作つた詩文は、へんてこな文辭を綴つたものではあるまいか、こゝに漢學者の批評をすることは御免蒙る。徳川時代になつて、日本文學史に異彩を放つた近松門左衞門は大阪に住んでゐた。漢學の餘弊を離脱してその該博な知識をもつて、流暢明快に五花八陳の美文を劇壇に供へた。この日本のシェークスピアーは前に古人なく後に來者なき作者であつて、大阪の否、日本の誇りとすべき文壇の巨擘である。
 科學者
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