3年であつたが キール大學よりベルリン大學に移つてから間もない時分であつたから專らキルヒホツフの講義を蹈襲していた。聽講者は僅に30名くらいであつたが1年を經ずして100人を越した。その講義の大要は邦譯されている。
 自分が最も先生の研究方法に敬服している点は理論を攻究するに 常に實驗結果に精通していることである。ベルリン大學で卒業生學生諸教授は毎週談話會(Colloquium)を開いて理論 實驗に關する報告論文等を批判する。先生は毎會出席して辯論し 實驗結果の良否を判斷し針路を指示するを常としている。即ち實驗は理論を築く源泉であるから 當然ではあるが 理論家は兎角實驗を忽にして失敗する。惡材料で堅牢な建築ができる筈はない。これを知りながらその調査を怠るは無謀である。深く戒めねばならぬ。
 先生は屡々轉宅されたが 終に郊外グルーネワルドの松林内に閑靜な庭園付きの家に移られてから世界第二大戰まで住まわれた。大學まで約半時間 市街鉄道で通われた。勞働者と區別できない粗服をひよろ長い体に※[「纏」の「广」に代えて「厂」、25−左−26]うて 泰然自若であつた。これは大學教授の習慣で 丁度高等
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