やりましたかな。」
「へゝえ、それだけの熱心を他のものに注いだら、立派な出世ができるだらうになあ。」
「それは時々私もさう思ひますんで。併し旦那、何しろ鳥渡面白うがすからな。一度この道へ踏み込んだら最後、二度と世間へは出られませんや。」
「さうかねえ。誰でも一度こんな商売をすると、もう足がぬけられないものかねえ。」作者はしみ/″\と自分に徹するやうに云つた。
「さうですよ。何しろ見物がわつと湧《わ》けあ、いつの歳になつても面白うがすからな。まあそいつを楽しみにしてやつてゐるんです。わつしだつて他に正直《まつたう》な商売があるもんなら、やりたいのは山々なんですよ。いやはや、これはお喋《しやべ》りをしました。御免……。」と云つて彼は応接間の方へ行つて了つた。
 一としきり楽隊の音が騒々しく起る。するとそれを縫うて拍子木の音が響く。座の方では今第一回の連鎖劇が始まる処であらう。案内女たちも去つた。事務員たちも卓についた。併しこの若い作者だけはぢつと手品師の行つたあとを眺めて、黙想し乍ら立ちつくした。あゝ職業、職業。彼は先ず今日一日だけも此儘ゐなければならない。『二ちやう』と聞くと彼は急いで薄暗い楽屋裏へ急いだ。
[#地から2字上げ](大正五年四月)



底本:「現代日本文學大系 45 水上瀧太郎 豐島與志雄 久米正雄 小島政二郎 佐佐木茂索 集」筑摩書房
   1973(昭和48)8月30日初版第1刷発行
   1982(昭和57)9月5日初版第11刷発行
初出:「新思潮」
   1916(大正5)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:鈴木厚司
2006年9月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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