気持にはならないものである。それは私が、まだ芸道未熟で、それだけの余裕がないせゐもあらうが、事実他の人々に聞いても、踊つてゐる中は大抵誰でも……シミイとかチークとかいふ特殊なダンスでない限り、さうした欲情に捉はれる事などはないさうである。そして若《も》しありとすれば、それは一種抽象的な、浄化された気分の醸製に過ぎなからう。却《かへ》つてさう云ふ感じを起すのは、踊らない、踊りを知らないで見てゐる、第三者の閑《ひま》な聯想《れんそう》のやうである。
 余談は扨《さ》て措《お》き、かうして私は平岡夫人と、不安な足どりのまゝ、誘《いざな》ふやうな音楽に連れて、曲りなりにも歩き出した。よた/\と、ひよこり/\と。……平岡夫人は併《しか》し懸命に、此の何時《いつ》踏み間違ふか分らない私の足を、敏感に予知してうまく従いて来て呉れた。
 一と舞曲の間は永かつた。中途で早く止んで呉れゝばいゝと思ふ位ゐだつた。が、其の中《うち》に不安の中《なか》にも、何だか妙な快感が生じて来た。少しの間でも、自分のステツプが一人前らしくなだらかに行くと、何だか天地の音律《リズム》と合致したやうな、一種の愉悦の念を覚えて来た。……
 夫人と一回踊り終ると、もう私もすつかり大胆になつて了つた。そして今度は、丁度其の場へ谷崎令妹葉山三千子君や其の友達が来てゐたので、隙《すき》を見て一緒に踊つて貰つた。そして一と廻りの中《うち》、少くとも三四回はステツプを間違へて、時々は相手の足を踏みつけた。
 其の頃、花月園へ、月曜と金曜とは、松田ラムプの社員たちが、二十人ほど揃つて、夫人からダンスを習ひに来てゐた。私は早速《さつそく》、其の人たちの中へ入れて貰つて練習した。其の人たちは皆、さう金持らしくない月給取りばかりだつたので、私も大変親しい気持で、仲間に入れて貰つた。さうなると私の凝り性で、廊下を歩いてゐても、散歩をしてゐても、思ひ出してはワンステツプ・ツウステツプだつた。おかげで連中の中では、やゝ上達の度が早かつた。
 そして其の次の週には、まだ足も腰もよく定《きま》つては居なかつたが、丁度、鶴見の舞踏場拡張の祝賀ダンスだつたので、図々しく其の中に交つて、下手《へた》は下手なりに、踊つてやつた。相手の困るのも知らずに。
「舞踏は図々しくなくちや駄目ですよ。一体貴方がたは、少し図々しさが欠けてゐるんだから、その意味
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