、こんなものなら、俺にだつて直ぐ出来さうだ。」と云ふやうな心持《こゝろもち》だつた。音楽に合《あは》して、歩いてゐれやあそれでいゝんぢやないか。と、そんな風に造作もなく思つた。それが病みつきの本《もと》で、又間違ひの本だつた。――全く社交ダンス程、入《い》り易くて、達し難きものはない。が入《い》りいゝ事だけは確かだ。そして別にさううまくならなくても、自《みづか》ら楽しみ得さへすれば、社交ダンスの目的は終るのだから、それだけでもいゝのだ。
 兎に角、私はかうして見て居る間に、直ぐ踊りたくなつたのは事実だつた。が、それと同時に、何だか気恥しいやうな、何ものにか済まないやうな気も起らないではなかつた。そして、それは動《やゝ》もすると、坊間《ばうかん》の「ブルヂヨアに対する反感」に似たものへ、迎合されさうな気さへした。
 一時間ほど居て、僕たちは其処を出た。
「どうだい。ダンスは?」僕は一緒に大人しく見てゐた、O君とS君とに云つてみた。
「うむ。新時代の女性も悪くないが、あゝいふのゝ仲間入りは少々恐入るね。僕には到底エトランゼエだ」
「ダンスなんて一種のぐわん[#「ぐわん」に傍点]みたいなもんぢやないですか。僕には迚《とて》も正視する事が出来ない位ゐですね。」
 O君とS君とは、そんなやうな事を口々に云つた。
「君たちは揃ひも揃つて天保時代だね。一概にさう反感を以《もつ》て、あゝ云ふ世界を頭から拒絶して了《しま》ふのは、寧《むし》ろあゝ云ふものに敗ける事だよ。其《その》点では僕はもつと勇敢だ。僕は是《これ》からダンスを始めるよ。」
 それから半月ほど経つてからだつた。当時、家に居ると来客や雑用で、どうも原稿の書けなかつた私は、よく東京近郊の宿屋へ出かけて、其処で月々の仕事を片付ける事にした。そして其の一つの常用地として、長谷川|時雨《しぐれ》さんの妹さんがやつてゐる、鶴見《つるみ》の花香苑《はなかゑん》があつた。確か六月の事だつたが、いつもの通り其処へ出かけて行つてみると、生憎《あいにく》部屋が一ぱいだつた。で、平岡権《ひらをかごん》八|郎《らう》君との関係上少しは知つてゐる花月園の、ホテルの方へ暫《しば》らく滞在する事にした。
 花月園内には京浜第一の、大舞踏場がある事は、兼々《かね/″\》知つてゐた。そして其処では水曜と土曜と日曜とに、毎《いつ》もバンドが来て舞踏会が開
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