では随分長く感じられた。久野はひょっとしてもうウインニングへ入っても審判の号砲が発火しないのじゃないかと思った。その瞬間に号砲は響いた。皆は漕ぎやめて艇内にどっと身を伏せた。
そして久野は初めてこの時|嵐《あらし》のような喝采《かっさい》が水上に鳴り響いているのを聴《き》いた。それは決勝点に近づくとから鳴り止《や》まなかったのであるが、彼の耳には入らなかったのである。
「どっちが勝ったんだ」と二番の早川が苦るしい息の中から、情けない声を出した。
「安心し給え。僕らだ」と久野は答えた。しかし久野自身も勝利を確信しているのではなかった。そして審判所に掲げられた樺色の旗を見るまでは安心がならなかった。
喝采はまだ続いていた。今までに類のないほどの接戦であったのが敵味方のいずれにも属してない観衆まで熱狂せしめたのである。
「窪田君、艇を岸につけようか」久野は言った。
「待ち給え。もっとゆっくりでいいよ。こんなことは滅多にないんだから、ゆっくり勝利の心持を味わおうじゃないか」
窪田は答えた。そして艇はなおも続いた喝采の渦巻《うずまき》の中で静かに水面に漂わされていた。
その時久野はふと農科の艇を見た。それは今岸に着けられたところであった。そして野次が艇内から敗れた選手を扶《たす》け起して岸へ上らせていた。三番の大きな男が二人の野次の肩に凭りかかって、涙をかくしながら運び去られた。彼らはわざとしているのか真に動き得なかったのか、とにかく一人では立てぬまでに疲れ果てていた。
たった半艇身の差が何という感情の異り目を造ったことであろう。時間にすれば二分の一秒を出ない間である。空間にすれば二間と出ないところである。そして全体の水路から見て真に何百分の一に足らぬ間である。この少しばかりの、しかも効果の恐ろしく大きな差は、そもどこから出たのであろう。主将の窪田は全く一本の櫂ごとにちょっとずつの差が出るという予定があったであろうか。毎日の練習の何分間かの優越がこの差を伴ったと久野自身も信ずることができるであろうか。もしこっちの選手の誰れかが一本櫂を流したらどうだろう。たちまち勝敗の数は転倒するかも知れない。久野がちょっと舵を入れ損《そこ》なったらどうだろう。たちまち艇は追い抜かれたかも知れない。真に危うい勝敗であった。「それはともかく勝ったには違いないんだ」と久野は置き去られた敵
前へ
次へ
全18ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング