ちに農科の三番が一つ大きなスプラッシュをした。水煙が鮮かにぱっと上った。久野は機を得たと言わぬばかりに、「やったぞ。あんな大きなスプラッシュを」と叫んだ。それを見た者も、見ぬものも皆この言に元気づいた。敵の艇はかえって久野に野次られて沈黙してしまった。やっと二つの艇は並んだ。そして水門前で文科は約半艇身先んじていた。農科の舵手はそれでも「向うはもうへたばったぞ!」なぞと言った。久野も「なあにこっちが出ているぞ!」と応酬したりした。しかし心持にはちっともそんな言葉戦いをしそうな余裕がなかった。
水門まで来かかると久野は「さあ水門だ」と敵に先んじて叫んだ。いかなる舵手でも言うに定まっている場所の指示を、敵艇の機先を制して言うのも、一つの戦術であった。早く言った方が晩《おそ》く言った艇より先にその場所へ届いたわけだからである。遅れ馳《ば》せに農科は水門で特別な力漕を十本した。それでまた艇は並んでしまった。後から追いつかれると何だかずっと追いぬかれたような気がするものである。久野の艇は何だかいつもより船脚が遅《おそ》いようであった。窪田は敵の艇を見やってそのピッチを比較しながら、「こんなはずではなかったが」と思った。しばらくするとまた文科の艇がじりじり抜き出した。久野は「この調子で」と叫んだ。農科の艇では沈黙していた。そしてもう渡し場での力漕十本はもうこっちに対して効力がなかった。窪田は半眼でその力漕を見やりながら、やっと安心してピッチを上げ出した。
洗い場では半艇身以上先んじていた。しかしここでの半艇身ばかりの差では敵のラスト・ヘビーが効《き》けば何の役にも立たない。久野は「あと一分だ。もう死んでもいいぞ」などと激励した。この「あと一分」と言う練習中に用い馴れた言葉が何よりも選手を元気づけた。一分間ならいくらへたば[#「へたば」に傍点]っても漕げるはずなのである。
皆は疲れて来た。すると不思議に艇がよく出だした。文科の艇は疲れて来ると各個人、癖がとれて、全体としての調子が揃《そろ》うのである。協力がこの時初めて平均した。そして窪田の櫂につれて、おのおのは器械的に身体を前後に動かした。
農科のラストも実によく出た。しかしそれを見て久野が気遣《きづか》っている間に文科の方のヘビーも非常によく効いた。多年の老練で窪田のピッチがぐんぐん上った。「もう十本!」決勝点に入るま
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